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人から忘れられることが残酷である(民俗学対談より vol.1)

この記事の内容は、2024年1月15日、ジュンク堂書店池袋本店で開催されたイベントの内容をもとに編集しました。数回に分け掲載します(実生社編集部)

登壇者
辻本 侑生(弘前大学地域創生本部助教)
木村 哲也(国立ハンセン病資料館学芸員)


辻本侑生 今日の対談には、民俗学の研究者である木村哲也さんをお招きしました。木村さんは、医療・福祉であったり、ハンセン病だったり、宮本常一の歩いた道のりの研究だったりと、社会の中の中心的な事柄というより、どちらかというとマイノリティだったり、排除されてきたり、見えなくされてきた対象を研究されています。

「忘れられた人」を追いかける民俗学

木村哲也 今日はよろしくお願いします。はじめに、一番大事なことを言わせてください。宮本常一という民俗学者の代表作が、『忘れられた日本人』という作品です。その中に「土佐源氏」という章があります(*)。「土佐源氏」は、『日本残酷物語』というシリーズのなかではじめに発表されたのですが、そこで宮本常一は面白いことを言っています。

このシリーズ名に付けられた「残酷」という言葉は、ある人の人生が惨めで残酷だという受け取られ方をした面もあったかもしれませんが、宮本常一はそうは言わない。「人から忘れられることが残酷なんだ」という言い方をしているのです。

もともと、『忘れられた日本人』は、「年よりたち」という平凡なタイトルをつけて雑誌で連載された内容をもとに、1960年に単行本として編まれましたが、本のタイトルを「年よりたち」とせずに『忘れられた日本人』としたのです。「日本人」という枠から忘れられた人たち、その人たちを主人公にするんだという、明確な意図をもってつけられているのです。いわゆる支配的な言説である「日本人」の枠からはみ出た人たちや、忘れられた人たちが存在することを、強く意識して編まれた作品ですね。

「過去を追いかけて何になる?」

時代を変えても、どんな地域でも、その時々の支配的な言説からこぼれ落ちる人は必ずいる。私は大学院の時に学友と世間話をしていたとき、「木村、お前は宮本常一のことを追いかけて調べているけど、現代であんな土佐源氏みたいな話なんか聞けないじゃないか。『忘れられた日本人』に出てくるような人の話はもう聞けないし、そんな過去のものを追いかけて何になるんだ」と言われたことがあります。

もちろん馬の売り買いをする馬喰(ばくろう)の人たちは今現在いませんから、馬喰だったおじいさんに話を聞くことはできないかもしれない。けれども、「新宿二丁目の年季の入った老舗のゲイバーに行って、その道何十年みたいな人に話を聞けば、似たような話はいくらでも聞けるはずだ」と、その場で反論をした記憶があります。
 
つまり、時代が変わっても、常に忘れられる人たち・記録に残らない人たちは存在していて、そういう存在をきちんと追いかけて調べた本が、今回の『生きづらさの民俗学』や、『クィアの民俗学』なんじゃないかなと思っています。
 
辻本 ありがとうございます。私が編集を担った二冊の本、一冊目は『生きづらさの民俗学』という差別問題とかマイノリティに関する本と、もう一冊は『クィアの民俗学』という本を、2023年に刊行しました。

今、忘れられている人のことを聞き取ることが大事だ

木村 この二冊からは、過去のことを追いかけることだけが民俗学ではないと、わかりますね。今、目の前にいて、忘れられている人、見えなくされている人、その人たちのことを聞き取ることはとても大事です。

以前、ある研究者の方のSNSで知った話ですが、新宿二丁目のとある老舗のゲイバーの店主さんが亡くなったそうです。しかし、その人に話を聞き、記録を取っていた研究者は誰もいなかったそうなんですね。

新宿二丁目はもともと赤線地帯といって、女の人が男の人に売春をする地帯だったのが、売春防止法で赤線地帯が廃止になった後に、60年代から70年代ぐらいかけて急速にゲイタウン化した街です。その店主は、その草分け時代から、二丁目の歴史を知っている方だったそうなのです。

二丁目の歴史を全部知っているような方が、言葉を残さずに亡くなってしまったということは、とても残念です。

目の前でいま起きていることに、もっと敏感にならなければいけないということを、この二冊の本が出たときに、思ったことです。



(*)木村哲也さんが、「土佐源氏」について書かれたエッセイは以下でご覧いただけます。


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