安永透

大学で哲学を教えている研究者です。三島由紀夫の作品(あるいはそれに関する評論)について…

安永透

大学で哲学を教えている研究者です。三島由紀夫の作品(あるいはそれに関する評論)についての感想を綴っていきます。三島の長編小説を紹介する「三島由紀夫にみる悪の心理」は著作別にマガジンにまとめてあります。是非ご覧ください。

マガジン

  • 三島由紀夫の対談

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最近の記事

『小説とは何か』を読む(2)

『暁の寺』の完成 三島は「小説とは何か」という文章の中で、長編小説『豊饒の海』第三巻『暁の寺』完成について、次のように語っている(決定版34,740ページ)。  「二種の現実」とは文脈上、「作品世界」と「作品外の現実」のことを指していると思われる。「確定せられ」とは、少なくとも「作品世界」については、豊饒の海の結末が確定したということを意味していると思われる。なぜなら738ページで、「『豊饒の海』を書きながら、私はその終りのはう〔ここでは「終結部」のこと〕を、不確定の未来に

    • 『小説とは何か』を読む(1)

      超現実の現実性 三島は『小説とは何か』という文章の中で、柳田国男『遠野物語』に出て来る或る幽霊譚を紹介している。そこでは、死んだはずの老女が、普段通りの格好をして家族の前に現れる。そしてその幽霊が通り過ぎる時、着物の裾が、置いてあった炭取に触れ、炭取がくるくると回ったという。このことについて三島は次のように言う(決定版34,729~730ページ)。  ここで、炭取が回転したことについて三島が、「幻覚と考へる可能性は根絶され」と言っているのは言い過ぎである。なぜなら、死んだは

      • 『若きサムライのための精神講話』を読む

        小説家は「生きられない」 三島は『若きサムライのための精神講話』と題するエッセイの中で、芸術(特に小説)と人生の関係について、次のように語っている(決定版35,52~53ページ)。  16歳で短編小説集『花ざかりの森』を出版して以来、あるいはそれ以前から、三島は小説という人生の記録のための技術を修練していたであろう。そうすると、上のように語る三島にとって、10代少なくとも後半以降の人生は、楽しくなかったということになるだろう。実際三島は『果たし得てゐない約束—私の中の二十五

        • 『橋川文三への公開状』を読む(2)

          言論の自由からテロへ (1)で見た通り、三島は現代日本の言論の自由と天皇との間に、「無秩序」という共通項を見出す。このことについて三島はさらに次のように語る(207~208ページ)。 三島によれば、文化としての天皇の、特に美的テロリズム・アナーキズムの系譜の中に、言論の自由が内包されているのである。ここで三島が考えている言論の自由とは、日本国憲法で考えられているような、個人の人格的尊厳の尊重に基づくものでは全くなく、ただ単に無秩序を招来するものなのだろう。 死による絶対化

        『小説とは何か』を読む(2)

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          15本
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          3本
        • 『仮面の告白』
          3本

        記事

          『橋川文三氏への公開状』を読む(1)

          言論の自由の必要性 政治学者の橋川文三は「美の論理と政治の論理」と題する文章で三島の『文化防衛論』を批判した。それに対して三島は「橋川文三氏への公開状」と題する文章で返答した。次の文章はその中の一節である(決定版35,207ページ)。  三島がここで言っていることは、『文化防衛論』の次の一節を意識してのことであると思われる(38~39ページ)。  ここで、伝統と美と趣味を保障する時間的連続性とは、『「文化防衛論」を読む』(2)で見た文化自体の連鎖・連続性のことであろう。一

          『橋川文三氏への公開状』を読む(1)

          『文化防衛論』を読む(3)

          テロという文化 三島によれば、(1)で見た通り、文化は形・フォルムである。そして(2)で見た通り、そのような文化は自ら連鎖・連続し、それにかかわる人間はむしろ自己放棄へと向かう。そしてそのような文化にはテロリズムも含まれる(決定版35,46―47ページ)。  三島の評論『日本文学小史』によれば、「みやび」は秩序の観念であり、一種の「理」であるが、同時にそれは、現実に存在する無秩序に対する愚痴や恨みつらみといった感情を伴った「理」である(『「日本文学小史」再読』参照)。また三

          『文化防衛論』を読む(3)

          『文化防衛論』を読む(2)

          文化が文化を生む (1)で見た通り、三島によれば文化は形・フォルムである。そしてそのフォルムがまた他のフォルムを生んでいく(22ページ)。  そして何と、文化の創造主体とは、三島によれば実は文化そのものなのである(24ページ)。  ここではっきりと、「日本文化は……自由な創造主体であって」と語られている。そして文化という主体の活動を振起するのが形・フォルムの伝承なのである。このような文化自体の連鎖・連続性は、発展・進歩とは異なり、歴史の中に現れたり隠れたりしながら自らの歴

          『文化防衛論』を読む(2)

          『文化防衛論』を読む(1)

          行動は文化 三島は評論『文化防衛論』の中で、行動様式も文化であると語る(決定版35,21~22ページ)。  ここでの三島によれば、文化は形(フォルム)である。実際三島は或る対談でも、文化・芸術を成立させるものは形・フォルムであると語っている(『「エロスは抵抗の拠点になり得るか」を読む』参照)。  しかもそのように形・フォルムたる文化には、芸術だけでなく行動も含まれる。すなわち或る種の軍事行動や武道などまでもが文化の一部たり得る。実際三島は或る評論で、陽明学が日本人の行動様

          『文化防衛論』を読む(1)

          『All Japanese are perverse』を読む(2)

          究極の性:フェティシズム (1)で見た通り、三島によれば、性的関係は性欲によって生じるのみならず、それを超克した社会関係によっても要請される。その究極に三島はフェティシズムを置いているように思われる(286~287ページ)。  ここでの三島によれば、フェティシズムは芸術や哲学や宗教の基盤となっている。ということは、社会において芸術や哲学や宗教が必要とされるならば、当然フェティシズムも必要とされるだろう。  またフェティシズムでは、表象固執と現実離脱が見事に結合し、それによ

          『All Japanese are perverse』を読む(2)

          『All Japanese are perverse』を読む(1)

          性的関係は社会的関係 三島は『All Japanese are perverse』と題した文章の中で、まず、人間が結ぶ性的関係を、男女の異性愛の関係、同性同士の同性愛の関係、サディストとマゾヒストの関係の3つに分類し、その理由を次のように説明する(決定版35,278~289ページ)。  ここでポイントであると思われるのは、三島によれば、三種の性的関係が三種の社会関係と「性欲を超克して相渉つてゐる」点である。すなわち、異性愛は社会秩序と、同性愛は戦闘集団と、サド・マゾは支配・

          『All Japanese are perverse』を読む(1)

          『行動学入門』を読む

          美は性欲の対象 三島は評論『行動学入門』の中で、美について次のように述べている(決定版35,637ページ)。  『「解説(「新潮日本文学6谷崎潤一郎集」)」を読む』で見た通り、美の基準は性欲であり、美の客体・対象は女性であり、美は客体・対象としてしか把捉されないというのは、三島が解釈するかぎりでの谷崎の考えであった。しかしここで三島はこのような考えを自身の考えとして提示しているように思われる。 行動の美という矛盾 続いて三島はこのような美についての考えを、以下のように行動

          『行動学入門』を読む

          『日本とは何か』を読む

          全共闘の無効性 三島は『日本とは何か』という文章の中で、東大全共闘と行った討論について、特に彼らの「空間主義」について次のように発言している(決定版35,686ページ)。  以上のような彼らの「空間主義」を三島は、「その有効性といふものは問題にしない、たとへ無効であつても、……いいぢやないか」という考えとして、言わば一種の刹那主義として解釈しているようである。  『「現代日本の思想と行動」を読む』で見た通り、三島は自身の楯の会などの活動を「精神運動」として捉え、それは、政

          『日本とは何か』を読む

          『現代日本の思想と行動』を読む

          精神の無効性 三島は『現代日本の思想と行動』と題する文章の中で、政治運動と精神運動と芸術運動を以下のように区別している(決定版36,110ページ)。  ここでの三島によれば、彼の運動(恐らくは楯の会などの活動)は、政治運動ではなく精神運動であり、両者は全く別物である。すなわち、政治運動の原則は有効性であり、有効であること、役に立つことが求められる。たとえば、飢えている人たちにパンを与えるべきである場合、実際にパンを与えることが政治運動には求められる。  それに対して精神運

          『現代日本の思想と行動』を読む

          『解説(「新潮日本文学6谷崎潤一郎集」)』を読む

          美の基準は性的興奮 三島は『新潮日本文学6谷崎潤一郎集』に寄せた解説の中で、『金色の死』という谷崎の作品について以下のように語る(決定版36,89ページ)。 三島の『金色の死』解釈によれば、岡村君(谷崎自身)における美の基準はただ視覚的官能(見ることによる性的興奮)だけである。ところで岡村君(谷崎自身)は男性なので、彼が異性愛者であれば、彼にとって美しいのは、男性の肉体ではなく女性の肉体なはずである。ではなぜ岡村君(谷崎自身)は、自分の肉体を美しくしなければならないのだろう

          『解説(「新潮日本文学6谷崎潤一郎集」)』を読む

          『悪の華』を読む

          進歩は存在しない 三島は『悪の華』と題する文章の中で、歌舞伎について次のように語っている(決定版36,226ページ)。 ここで三島は歌舞伎のことを、いつでも昔の方が良かったもの、進歩しないものと考えている。そのような歌舞伎においては、「私で終りだといふ気持ちがないと」ダメだとしている。  これに関連して三島は、私が『「政治行為の象徴性について」を読む』で紹介した通り、あいだももとのこの対談で、次のような難解な発言をしている。  この発言を聞くと、「自分が終わりだというこ

          『悪の華』を読む

          『革命哲学としての陽明学』を読む

          太虚に帰れ 三島は評論『革命哲学としての陽明学』の中で、大塩平八郎の陽明学理解を次のように紹介している(決定版36)。それによれば「太虚」とは、ウパニシャッドのブラフマンのような唯一無二の宇宙の根本原理であり(286ページ)、万物創造の源である(284ページ)。太虚は人間の肉体の中にも広がっており、心から欲を打ち払ってこれに帰れば、その人は不動である(296ページ)。このことを大塩は、壺の中を満たしている空虚が、壺が壊されれば太虚に帰ることに喩えている(284ページ)。  

          『革命哲学としての陽明学』を読む