安永透

大学で哲学を教えている研究者です。三島由紀夫の作品(あるいはそれに関する評論)について…

安永透

大学で哲学を教えている研究者です。三島由紀夫の作品(あるいはそれに関する評論)についての感想を綴っていきます。三島の長編小説を紹介する「三島由紀夫にみる悪の心理」は著作別にマガジンにまとめてあります。是非ご覧ください。

マガジン

  • 三島由紀夫の対談

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  • 『愛の渇き』

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最近の記事

『ナルシシズム論』を読む

自意識の客観性 三島は『ナルシシズム論』と題した文章で、古代ギリシア神話で、水面に写った自分に恋して死んだナルシスの神話について次のように語る(決定版34,147—148ページ)。 確かに、もしナルシスが絶世の美男子でなかったら、彼の死は愚かに見え、神話にはならなかったかもしれない。しかしここで三島が主に問題にするのはそのことではなく、どうしてナルシスは、自分が絶世の美男子であるということに、かくも自信があったのかということである。  このようないわばナルシスティックな自

    • 『葉隠入門』を読む(2)

      体面のために死ぬ (1)で見た通り、三島によれば『葉隠』では、無駄に生きるよりも無駄に死んだ方がまだマシであると考えられている。なぜそうなのであろうか。この疑問に対する答えのヒントは、「外見の道徳」と題された次の箇所にあるように思われる(決定版34,510~511ページ)。  ここで三島が理解する『葉隠』によれば、人間なら誰しも「しほたれ」「くたびれ」る。しかし武士道はそれを、「男性特有の虚栄心」から、表に出すことを禁じる。無駄に生きていると「しほたれ」「くたびれ」るだろう

      • 『葉隠入門』を読む(1)

        安保闘争はムダ 三島は評論『葉隠入門』の中で、安保闘争について次のように語っている(決定版34,488ページ)。 ここでの三島によれば、安保闘争は「一種のフィクションであり」「無効であつた」。それでは、このようなものに「身を挺した」青年たちの行動は、『葉隠』の観点からはどのように評価されるのであろうか。次の箇所は『葉隠入門』のほぼ最後の箇所である(539~540ページ)。 死んだ方がマシ ここで三島が理解する『葉隠』によれば、死には「図にはづれ」た死、つまり「むだな犬死」

        • 『小説とは何か』を読む(4)

          小説家は生きていない 三島は「小説とは何か」の中で、小説家の人生について次のように語る(決定版34,692ページ)。  ここでの三島によれば、小説家が持つ人生への好奇心は、もちろん人生と関係するけれども、しかしそれは同時に人生と関係することの忌避でもある。なぜなら小説家というものは、「自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する」からである。  ここで「内部」とは、小説家の人生への好奇心によって生まれた何らかの人間観であり、「外部」とは、そのような人間観のもととなった

        『ナルシシズム論』を読む

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          15本
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        • 『仮面の告白』
          3本

        記事

          『小説とは何か」を読む(3)

          生き残る精神 三島は「小説とは何か」の中で、人の生き死にについて次のように語っている(741~742ページ)。 ここで肉体が生きている/死んでいるとは、通常の意味で人が生きている/死んでいるということを意味しているであろう。では、心が生きている/死んでいるとはどういう意味であろうか。肉体が死んでも心が生きている場合があるとのことだが、これは、何らかの心霊現象の類のことでないとすれば、その人の精神が人々の心の中に生き続けているというようなことを意味しているのであろう。続きを読

          『小説とは何か」を読む(3)

          『小説とは何か』を読む(2)

          『暁の寺』の完成 三島は「小説とは何か」という文章の中で、長編小説『豊饒の海』第三巻『暁の寺』完成について、次のように語っている(決定版34,740ページ)。  「二種の現実」とは文脈上、「作品世界」と「作品外の現実」のことを指していると思われる。「確定せられ」とは、少なくとも「作品世界」については、豊饒の海の結末が確定したということを意味していると思われる。なぜなら738ページで、「『豊饒の海』を書きながら、私はその終りのはう〔ここでは「終結部」のこと〕を、不確定の未来に

          『小説とは何か』を読む(2)

          『小説とは何か』を読む(1)

          超現実の現実性 三島は『小説とは何か』という文章の中で、柳田国男『遠野物語』に出て来る或る幽霊譚を紹介している。そこでは、死んだはずの老女が、普段通りの格好をして家族の前に現れる。そしてその幽霊が通り過ぎる時、着物の裾が、置いてあった炭取に触れ、炭取がくるくると回ったという。このことについて三島は次のように言う(決定版34,729~730ページ)。  ここで、炭取が回転したことについて三島が、「幻覚と考へる可能性は根絶され」と言っているのは言い過ぎである。なぜなら、死んだは

          『小説とは何か』を読む(1)

          『若きサムライのための精神講話』を読む

          小説家は「生きられない」 三島は『若きサムライのための精神講話』と題するエッセイの中で、芸術(特に小説)と人生の関係について、次のように語っている(決定版35,52~53ページ)。  16歳で短編小説集『花ざかりの森』を出版して以来、あるいはそれ以前から、三島は小説という人生の記録のための技術を修練していたであろう。そうすると、上のように語る三島にとって、10代少なくとも後半以降の人生は、楽しくなかったということになるだろう。実際三島は『果たし得てゐない約束—私の中の二十五

          『若きサムライのための精神講話』を読む

          『橋川文三への公開状』を読む(2)

          言論の自由からテロへ (1)で見た通り、三島は現代日本の言論の自由と天皇との間に、「無秩序」という共通項を見出す。このことについて三島はさらに次のように語る(207~208ページ)。 三島によれば、文化としての天皇の、特に美的テロリズム・アナーキズムの系譜の中に、言論の自由が内包されているのである。ここで三島が考えている言論の自由とは、日本国憲法で考えられているような、個人の人格的尊厳の尊重に基づくものでは全くなく、ただ単に無秩序を招来するものなのだろう。 死による絶対化

          『橋川文三への公開状』を読む(2)

          『橋川文三氏への公開状』を読む(1)

          言論の自由の必要性 政治学者の橋川文三は「美の論理と政治の論理」と題する文章で三島の『文化防衛論』を批判した。それに対して三島は「橋川文三氏への公開状」と題する文章で返答した。次の文章はその中の一節である(決定版35,207ページ)。  三島がここで言っていることは、『文化防衛論』の次の一節を意識してのことであると思われる(38~39ページ)。  ここで、伝統と美と趣味を保障する時間的連続性とは、『「文化防衛論」を読む』(2)で見た文化自体の連鎖・連続性のことであろう。一

          『橋川文三氏への公開状』を読む(1)

          『文化防衛論』を読む(3)

          テロという文化 三島によれば、(1)で見た通り、文化は形・フォルムである。そして(2)で見た通り、そのような文化は自ら連鎖・連続し、それにかかわる人間はむしろ自己放棄へと向かう。そしてそのような文化にはテロリズムも含まれる(決定版35,46―47ページ)。  三島の評論『日本文学小史』によれば、「みやび」は秩序の観念であり、一種の「理」であるが、同時にそれは、現実に存在する無秩序に対する愚痴や恨みつらみといった感情を伴った「理」である(『「日本文学小史」再読』参照)。また三

          『文化防衛論』を読む(3)

          『文化防衛論』を読む(2)

          文化が文化を生む (1)で見た通り、三島によれば文化は形・フォルムである。そしてそのフォルムがまた他のフォルムを生んでいく(22ページ)。  そして何と、文化の創造主体とは、三島によれば実は文化そのものなのである(24ページ)。  ここではっきりと、「日本文化は……自由な創造主体であって」と語られている。そして文化という主体の活動を振起するのが形・フォルムの伝承なのである。このような文化自体の連鎖・連続性は、発展・進歩とは異なり、歴史の中に現れたり隠れたりしながら自らの歴

          『文化防衛論』を読む(2)

          『文化防衛論』を読む(1)

          行動は文化 三島は評論『文化防衛論』の中で、行動様式も文化であると語る(決定版35,21~22ページ)。  ここでの三島によれば、文化は形(フォルム)である。実際三島は或る対談でも、文化・芸術を成立させるものは形・フォルムであると語っている(『「エロスは抵抗の拠点になり得るか」を読む』参照)。  しかもそのように形・フォルムたる文化には、芸術だけでなく行動も含まれる。すなわち或る種の軍事行動や武道などまでもが文化の一部たり得る。実際三島は或る評論で、陽明学が日本人の行動様

          『文化防衛論』を読む(1)

          『All Japanese are perverse』を読む(2)

          究極の性:フェティシズム (1)で見た通り、三島によれば、性的関係は性欲によって生じるのみならず、それを超克した社会関係によっても要請される。その究極に三島はフェティシズムを置いているように思われる(286~287ページ)。  ここでの三島によれば、フェティシズムは芸術や哲学や宗教の基盤となっている。ということは、社会において芸術や哲学や宗教が必要とされるならば、当然フェティシズムも必要とされるだろう。  またフェティシズムでは、表象固執と現実離脱が見事に結合し、それによ

          『All Japanese are perverse』を読む(2)

          『All Japanese are perverse』を読む(1)

          性的関係は社会的関係 三島は『All Japanese are perverse』と題した文章の中で、まず、人間が結ぶ性的関係を、男女の異性愛の関係、同性同士の同性愛の関係、サディストとマゾヒストの関係の3つに分類し、その理由を次のように説明する(決定版35,278~289ページ)。  ここでポイントであると思われるのは、三島によれば、三種の性的関係が三種の社会関係と「性欲を超克して相渉つてゐる」点である。すなわち、異性愛は社会秩序と、同性愛は戦闘集団と、サド・マゾは支配・

          『All Japanese are perverse』を読む(1)

          『行動学入門』を読む

          美は性欲の対象 三島は評論『行動学入門』の中で、美について次のように述べている(決定版35,637ページ)。  『「解説(「新潮日本文学6谷崎潤一郎集」)」を読む』で見た通り、美の基準は性欲であり、美の客体・対象は女性であり、美は客体・対象としてしか把捉されないというのは、三島が解釈するかぎりでの谷崎の考えであった。しかしここで三島はこのような考えを自身の考えとして提示しているように思われる。 行動の美という矛盾 続いて三島はこのような美についての考えを、以下のように行動

          『行動学入門』を読む