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『葉隠入門』を読む(2)

体面のために死ぬ

 (1)で見た通り、三島によれば『葉隠』では、無駄に生きるよりも無駄に死んだ方がまだマシであると考えられている。なぜそうなのであろうか。この疑問に対する答えのヒントは、「外見の道徳」と題された次の箇所にあるように思われる(決定版34,510~511ページ)。

なによりもまづ外見的に、武士はしほたれてはならず、くたびれてはならない。人間であるからたまにはしほたれることも、くたびれることも当然で、武士といへども例外ではない。しかし、モラルはできないことをできるやうに要求するのが本質である。そして武士道といふものは、そのしほたれ、くたびれたものを、表へ出さぬやうにと自制する心の政治学であつた。健康であることよりも健康に見えることを重要と考へ、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考へる、このやうな道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いてゐる点で、もつとも男性的な道徳観といへるかもしれない。

 ここで三島が理解する『葉隠』によれば、人間なら誰しも「しほたれ」「くたびれ」る。しかし武士道はそれを、「男性特有の虚栄心」から、表に出すことを禁じる。無駄に生きていると「しほたれ」「くたびれ」るだろう。しかしそれを虚栄心から表に出せないとなると、さらに苦しいだろう。それだったら、無駄だろうが何だろうが死んだ方がマシだと考えるのは、理解できないことはない。

ニセ大義のために死ぬ

 このことに関連して、三島は、『円谷二尉の自刃』と題する文章で、彼の死を「美しい自尊心の自殺」(652ページ)と呼びつつ、次のように語っている(653ページ)。

オリンピックを大義と錯覚する心は、少なくともそのはげしい練習と、衰えゆく肉体に対するきびしい挑戦のうちに、正に大義に近づいてゐたのだと考へるはうが親切である。一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、といふのが人間の宿命である。この贋物の大義を通じて大義を知つた青年の心は、栄光のどこにもない時代にかつての栄光の味を知つてゐた。

ここでの三島によれば、確かにオリンピックは、そのために死ぬほどの大義ではない。しかし、三島が理解する『葉隠』的な観点からすれば、「しほたれ」「くたびれ」て生きているよりは、無駄ではあっても死んだ方がマシということになるのであろう。

 このような生き方の美しさは、通常の美しさとは異なる。三島は次のように語る(532ページ)。

「葉隠」のいふ美は愛されるための美ではない。体面のための、恥づかしめられぬための強い美である。愛される美を求めるときに、そこに女風が始まる。それは精神の化粧である。「葉隠」はこのやうな精神の化粧をはなはだにくんだ。

『「行動学入門」を読む』で見た通り、通常美は対象としてしか把捉されず、美の対象は女性である。「愛されるための美」「女風」とは、対象としての美のことであろう。それに対して行動の美は、行動が主体的なものであるがゆえに、行動者は自分の美に気づかない。「体面のための、恥づかしめられぬための強い美」もそのように、美しくあろうとはしていない美であるのだろう。

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