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『文化防衛論』を読む(2)

文化が文化を生む

 (1)で見た通り、三島によれば文化は形・フォルムである。そしてそのフォルムがまた他のフォルムを生んでいく(22ページ)。

能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、伝承のための手がかりをはじめから用意してゐるが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺激するフォルムなのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色であり、……

 そして何と、文化の創造主体とは、三島によれば実は文化そのものなのである(24ページ)。

かくして創り出される日本文化は、創り出す主体の側からいへば、自由な創造的主体であつて、型の伝承自体、この源泉的な創造的主体の活動を振起するものである。これが、作品だけでなく、行為と生命を包含した文化概念の根底にあるもので、国民的な自由な創造的主体といふ源泉との間がどこかで絶たれれば、文化的な涸渇が起こるのは当然であって、文化の生命の連続性(その全的な容認)といふ本質は、弁証法的発展乃至進歩の概念とは矛盾する。なぜならその創造主体は、歴史的条件の制約をのりこえて、時に身をひそめ、時に激発して(偶然にのこされた作品の羅列による文化史ではなくて)、国民精神の一貫した統一的な文化史を形成する筈だからである。

 ここではっきりと、「日本文化は……自由な創造主体であって」と語られている。そして文化という主体の活動を振起するのが形・フォルムの伝承なのである。このような文化自体の連鎖・連続性は、発展・進歩とは異なり、歴史の中に現れたり隠れたりしながら自らの歴史を形成していく。

 文化は進歩したり発展したりしないという考えについて三島は対談の中で繰り返し述べている。『「政治行為の象徴性について」を読む』『「二十世紀の文学」を読む』『「捨身飼虎」を読む』『「悪の華」を読む』参照。

文化的自己放棄

 それとは対照的に、そのように自ら連鎖・連続する文化にかかわる人間は、三島によれば自己放棄へと向かう(30ページ)。

文化における生命の自覚は、生命の法則に従つて、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へと人を促す。自我分析と自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。〔中略〕自我滅却の栄光の根拠が、守られるものの死んだ光輝にあるのではなくて、活きた根源的な力(見返す力)に存しなければならぬ、〔中略〕主体と客体の合一が目睹〔もくと〕される〔目撃される〕のは自然であらう。文武両道とはそのような思想である。

 文化自身が文化創造の主体となるとき、文化は対象であると同時に主体となり、ただ「見られる」対象であるだけでなく、「見る」主体として自身を「見返す力」となる(25ページ参照)。そのことがここで「主体と客体の合一」「文武両道」と呼ばれており、そのときそれにかかわる人間は「自我滅却の栄光」に与る。

 実際三島は或る対談の中でも、個我としての自我は存在せず、形式・フォルムと同一化した自我だけがあると語っている(『「政治行為の象徴性について」を読む』参照)。

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