俳句とからだ 173号 視覚と経験
連載俳句と“からだ” 173
愛知 三島広志
視覚と経験
夜明け前の空を観るのが好きだ。20分ほど歩くと東方が一望できる高台に出る。暗黒の山稜や公園のタワーの向こうから赤い暁光が噴き上がる。赤色は中空に向かって薄まり橙から黄、黄緑から淡い青、そして濃紺の空へと移る。色彩の変化は虹の配列と基本的に同じだ。濃紺の空に金星が輝き、振り返ると西空に月が傾く。これは柿本人麻呂(660頃~724)の詠んだ
東の野にかげろひの立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ
と同じ光景だ。692年冬の作と伝えられている。宇宙の巡行とそれを記した歌の世界が時空間を超えて今ここに存在することに感動を禁じ得ない。
私達は外界からの情報を五感で受容する。五感とは視・聴・嗅・味・触を示す。中でも視覚から得る情報量は大きい。人間の情報処理は感覚、知覚、認知で表される。その違いは外界から情報が刺激として感覚受容器に入り興奮が生じると感覚、知覚は対象を知ること、認知はさらに高次の処理で情報の選択、判別、決定、理解、記憶、推論、理解であるとされる。赤い林檎があると感覚は赤い光とそうでない部分の素朴な判別、それが赤い円形であると分かるのが知覚、そして林檎と理解するのが認知であるという。(「感覚情報の知覚メカニズム」工業技術院製品科学研究所清水豊氏の論文参照)
夜明けの空の色彩を感覚受容器である目の網膜が捉えると、その情報は視神経を介して脳へ伝わる。色の感覚を知覚し認知した時、光の情報は心身に何らかの影響を及ぼし感情や思考へ影響する。それが連日のように明けの空へ私を導く動機となり、人麻呂の歌を想起させる。絵心があればその色を印象派の画家のようにカンバスへ塗り込めるだろう。詩心があれば詩歌の一つも詠むであろう。
古里は霜のみ白く夜明けたり
山口青邨
五感を研究しているのは最新科学だけでは無い。哲学者カントは我々のうちにア・プリオリに「形式」が存在し、感覚は空間の形式として知覚され、時間の形式の中に保存され一つの経験と為すと説く。つまり夜明けの空の色という空間に存在する情報を脳に伝え、記憶という時間に留めるということである。それによって外部情報は受容され、時空を保ち経験となる。それが言語化され詩歌として保存されると今度は読者の経験として感動を呼ぶ。
夜明けの空を眺める時、認知された色彩や形態の情報は時空を超えて宇宙と自分が一如となる貴重な認知経験となる。詩歌もまた共通経験として感動を呼ぶのだ。
ガンジスに身を沈めたる初日かな
黒田杏子