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「沁みる」×「まだ寝たい」×#F5F5F5

 台所から、香ばしい焼ける音とふんわりと温かみが混じった匂いが漂ってくる。

「おはよう」

 薄い水色のブラウスに紺色の膝までのスカートを身に着けた姉さんが、いつも通りに朝食を作っている。
 今日のためにと励んでいたダイエットは無事に成功したらしい。もともと痩せていたけれど、さらに凛とした美しさが加わって女性らしさに箔が付いたような気がする。

「おはよう。早いじゃない。いつもなら、起こさないと起きてこないくせに。」
「今日くらいはね。」
「そうね。最後だものね。」
「……うん。」
「父さんも、起こしてきて。そろそろ起きてもらわないと、困るわ。」
「わかった。」

 姉さんは、今日この家を出て自分たちの家族を作る。

「父さん、そろそろ起きて。」
「……まだ寝かせておいてくれ。」
「だから、昨日あんなに飲んじゃダメって言ったじゃない。今日は準備もあるんだから、早く起きて。ごはん、出来るよ。」

 唸りながらもぞもぞと動く布団にため息を一つ吐く。父さんは、たぶんとっくに目が覚めていたと思う。
 初めての娘の旅立ちに思うところがあるのだろう。昨夜もニコニコと笑いながらビールに日本酒に、お酒をどんどんと空けていた。飲みすぎないでね、と困ったように笑う姉さんに、絡むようにして話しかけたりもして。
 姉さんが式のために早めに部屋に引き上げると、それまでの機嫌のよさは嘘のように薄れていった。じっとお酒の入ったお猪口を眺めて、身動き一つしない。
 お猪口は、去年の父の日に私と姉さんが贈ったものだ。厚すぎないガラスに、白の斑点が映えて美しい。白なのに、寒々としていないところが気に入って購入した。
 そういえば、初めて目にしたとき父さんはすごく喜んでくれたんだった。なんでもない日に、お返しとして私たちの分も父が買ってきてくれた。食器棚の3段目、右にちょこんと3つ並んだお猪口を見るたびに、なんとなく嬉しくなって。家族って感じする、と言ったら、二人に笑われた。

「……お前も、いずれはお嫁に行くんだよなぁ。」

 お猪口をじっと見つめながら、父がつぶやく。なんて答えたらいいのか分からなくて、私は聞こえないふりをした。
 父も返事を求めていたわけではなかったらしい。何も言わずに、ぐいっと入った酒を飲みほして、観もしないはずのテレビのスイッチをつけてぼんやりと眺めていた。

「あ、父さんやっときた。ごはん、もう出来てるから早く食べちゃってね。片付けは……」
「私がするから大丈夫。」
「あ、本当?じゃあ、お願いね。」

 父が食卓についたタイミングで、朝食が並べられる。
 大皿に乗った卵焼きに小鉢に入ったおひたし。味噌汁は父さんが好きななめこと豆腐が浮いている。昨日の夜に漬けておいたらしいキュウリの浅漬けは、緑が増して瑞々しく目に映える。

「じゃ、父さんお願いします。」
「ん。……いただきます。」
「いただきます。」

 父さんの声に続いて、私と姉さんの声が重なる。今日で、この日常は終わりになるんだ。9年前、父さんに続く声は3つあった。
 日々を重ねて、変わらないものなんてない。分かっているはずの事実なのに、いざ突き付けられると寂しくて仕方がない。そんな寂しさを悟られないように、焦げ目のついた卵焼きでご飯を思い切り頬張った。

 母さんが家を出て、9年経った。ドラマのような現実に、私たちはすっかり参ってしまった。中学3年生だった私は、なんでこんな時期にというほうが先に来た。でも、1年遅かったら姉さんの大学受験と重なっていた。
 だとしたら、まだこのタイミングでよかったのかもしれないとも思えた。母さんがいなくなったことよりも、自分の受験の心配をした嫌らしさにちょっとだけ泣いた。
 このとき、父さんと姉さんがどんな話をしたのかは分からない。

 ただ一つ確実なのは、私はこれまでと同じ生活を送れたいたということだ。

明るかった母さんが去った家は、笑い声が消えてひっそりとしていった。もともと口数の少なかった父さんは、前にもまして仕事に打ち込むようになった。
 私が起きる前に家を出て、私が眠ってから家に帰ってくる。顔を合わせるのは休みの日だけ。
 2つ歳が違う姉さんは、母さんが家を出てから母親代わりを進んで引き受けてくれた。器用で、優しい人なのだ。毎日学校に通いながら、私たちの食事を準備してくれていた。何も言わずに、淡々と。
 そんな辛気臭い空気に一番最初に飽きたのも、姉さんだった。

「もう、何も話さずにごはん食べるのやめない?母さんは絶対に戻ってこない!それでいいじゃない。だからって、私たちがしんみりする必要ないわよ。母さんは、母さんの幸せを選んだだけ。だったら、私たちは私たちの幸せを選んでやりましょうよ。いっぱい食べて、いっぱい寝て、いっぱいいっぱい笑う!……ね?」

 週に数回の、家族全員が揃う食卓で姉さんは言った。それぞれの目の前には、山のように盛られたごはん、そしてとんかつとたっぷりのキャベツ。汁物は豚汁で、ボリュームがたっぷりだった。
 私たち、最近小食気味だったものねと泣きそうな顔で姉さんは笑った。
 重すぎる夕飯を終えた私たちは、よく笑うようになった。過剰なほどに、何にでも。父さんとは、休みの日以外にも一緒にご飯を食べるようになった。その後に、控えていた私の受験も無事に終わって、変化した日常が当たり前になった。

 母さんからは、家を出てから一度も連絡は来ていない。

 飾りっぱなしになっていた母さんの写真は、いつの間にかしまわれていた。姉さんに聞いたら、そこまで寛大にはなれないわよと素っ気ない声で返ってきて、ちょっとだけ安心した。

 半年前、食事の時間に姉さんがいった。

「会わせたい人がいるの。」
「……へ?」

 大学を卒業して2年。姉さんは、4年。全くといっていいほど、男っ気がなかった。
 公務員になった姉さんは、決まった時間に帰ってきて私たちの食事を作る。今日の献立もばっちりで、いつも『いつでもお嫁にいけるね』なんて笑っていたのに。
 食卓に並べられた煮魚に目をやる。脂がたっぷりとのったカレイは、きらきらと輝いている。昨日の残りだと出された大根の煮物も味が染みていて美味しい。
 ふと、父さんを見たら、あらかじめ話を聞いていたらしく、頷くだけで何も言わない。

「……付き合っている人ってこと?」
「そう。そろそろいいかと思って。」
 何事もなさそうに姉さんは返事をする。当たり前の、これまで通りの会話と同じように。
「いつだ?」
「そうだな、週末がいいなって話してるんだけど。今週って大丈夫?二人とも、予定は」
「大丈夫だ。お前も、姉さんの婚約者が来るんだ。予定入っているならずらしなさい。」
「もともと、入ってなかったから大丈夫。うん、大丈夫。」
「本当?じゃ、伝えておくね。」
「……どんな人?仕事は?あ、芸能人でいうとどんな感じ?」
「もう、そんなに一気に聞かれても答えられないわよ。どうせ、すぐ会うんだから本人に聞けばいいじゃない。妹も楽しみにしてるって伝えておくから。」
「そう、そうね。うん、そうする。」
 その日の食卓は、なんだか母さんがいなくなった頃の我が家のようだった。
 ひっそりと静かに、誰も必要以上に言葉を発さずに時間は流れていった。食器の音だけがカチカチと響いて、久しぶりにうるさく感じた。

「いつから付き合ってたの?」
 台所に並びながら、二人で食器を洗う。
「ん?……あぁ、3年前くらいかなぁ。もともとは大学の同級生よ。サークルで同窓会みたいなことしようってなって久しぶりに会って。そのまま、なんとなく。」
「……初めての彼氏だったの?」
 思わず興味本位で聞くと、吹き出しながら、そんなわけないと笑う。
「だって、誰かと付き合っている感じ、全然しなかったし。」
「そりゃあ、家のことしなきゃいけなかったし。恋愛メインに動くなんて余裕なかったわよ。あんたもまだまだ頼りなかったし。」
「……なんで、結婚決めたの?」
「ん?彼が転勤するっていうから、じゃあ付いていこうかなって。それに、もう私がいなくても大丈夫でしょ?婚期逃した!って、あんたに詰め寄る未来は嫌だったしね。タイミングが合ったから、じゃあって乗っかってみただけよ。」
「……ふうん。」
「ちなみに」
 婚前交渉はなしよ、耳元でこそっと話して、いたずらな笑顔を見せてくる。
「妹になんてこというのよぉ!」
「別にいいじゃない、姉妹なんだもの。」
 げらげらと笑う姉さんは、いつも通りだったけれどちょっとだけ綺麗に見えた。

 週末に現れた姉さんの恋人は、すらっとしたスーツの似合う真面目そうな人だった。ちょっと野暮ったい眼鏡がよく似合っていて、父さんと話すと緊張して噛んで、間抜けなところが笑える。
 姉さんと視線が交じるときには、空気が和らいで暖かいものが流れる。この人といれば、姉さんは幸せになれる。
 確信に近い何かが、胸に湧いてきて安心する。

姉さんのこと、ちゃんと幸せにしてくださいよ。帰り際に声をかけると、キッと目に意思が宿ってもちろんだよ!と力強く頷いてくれた。

「ね、父さんここ座って。」
 家族最後の朝食の後、片づけをしていると姉さんに声をかけられた。
「ほら、あんたもおいで」
 結構洗い物あるのに、と渋々行くとピンと背筋を伸ばして正座をしている姉さんと、照れ臭そうにしている父さんがいる。父さんの隣に腰を下ろすと、姉さんが満足そうな顔で頷いて、すっと三つ指を立てる。
「これまで、大変お世話になりました。本日、私はこの家を出ます。父さん、育ててくれてありがとう。ミサも、いつも慕ってくれてありがとうね。3人で、家族で過ごした時間は私の宝物です。」

 そういって、姉さんが頭を下げる。一粒だけ流れた涙が、とても美しいと思った。

 私の姉さんは、今日お嫁にいく。世界でたった一人の、私の姉さんが幸せになれますように。

 一粒の涙と、白のドレスに願いを託した。

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サイトのほうでは先週更新していましたが、バタバタしていたのでこちらでは今週になってしまいました。
ジューンブライド、最近は主流じゃないなんて話も聞いたけれど、やっぱりみんな憧れるのでは。雑誌の結婚式特集とかをめくりながら、何回も妄想を繰り広げてしまう私です。

公式サイト「花筐」/ Twitter→@mishika_3_2

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