偏見は気づかない×水筒×#B2B2FF
カシャカシャと軽い音を立てながら、たくさんの書類がコピー機のなかに飲み込まれていく。社内では電子でもいいが、さすがに社外での打ち合わせではまだまだ紙ベースである。基本的に自分のことは自分で、が徹底された社内で、若い女性社員に「これコピーとっていて」をする男は嫌われる。
「渡辺さん、コピー終わりました。」
「よし、じゃあ行きますか。」
先輩の渡辺さんはいかにも“優男”って感じで、人当たりもとても柔らかい。女性社員からの風当たりが強い俺とは大違いだ。渡辺さんは素敵な人なんだと思うけれど、俺自身がこんな風になりたいとは全く思わない。もしかしたら、優しい態度を崩さない彼だって、恋人には冷たく当たっているかもしれないじゃないか。
俺は、裏表がないだけなんだと思っている。初めて会った女性の爪をチェックして料理が出来なさそうだと思うのも、大きな口をあけて笑うのを下品だとこき下ろすのも、みんな目の前でしないだけで、裏では絶対にしているはず。
最近、ぐるぐると同じことばかりを考えている。もしかしたら、なんて思考がくだらないことは分かっているけれど、それでも考えずにはいられない。もし、サトコと付き合っていたのが俺じゃなかったら、渡辺さんのような男だったら、うまくいっていたのかもしれないって。
「お疲れさまです」
「おー」
かちんと軽くジョッキを合わせて、グイっとビールを煽る。じめじめとした空気をまとった街は、熱気をはらんでいて不快だ。冷えたビールが喉を通って、すっきりと爽快感を腹の底まで運んでくる。
「やっぱり、夏はビールっすよねー」
「だな」
お通しで運ばれてきたつまみを口に放り込んで、渡辺さんが笑う。そういえば、俺はいつからビールが好きになったんだろう。最近では当たり前のように注文するけれど、学生をしていたときはあんまり好きじゃなかったし、格好つけるためだけに飲んでいた。大人になった、ということなのだろうか。
サトコと別れて、1カ月になる。友人の に無理やりセッティングさせた食事で、やっと取り付けた交際だった。
ショウの彼女の友だちだったサトコの写真を見せてもらったことがあった。そんなに派手じゃなく、友だちとリラックスした様子で写真のなかで微笑む彼女は結構ポイントが高かった。大学時代に付き合っていた彼女とは、仕事が忙しくなるについて別れた。そのあと、何となく付き合っては別れて……そんなことを繰り返していたら、あっという間に20代も後半に差し掛かる。そんなときに、たまたま目にした彼女を紹介してくれと頼み込んだ。まさに、しぶしぶといった感じ。マイペースなやつのくせに珍しいと思ったが、どうやら彼女のほうが渋っているらしい。待ち合わせ場所で、待望の彼女を待っている間じーっと嫌な視線をまとわりつかせていた。よくこういう女と付き合えるよなーとのほほんと笑った の顔を眺める。隣に立つ彼女は、いらだたしげに何度も指を鳴らしていた。
実物を見ると、サトコは思った通りの女だった。おとなしいのか、人見知りなのか分からないけれど、特に自分から積極的に口を開こうとはしない。メニューを開いている指を見ると、飾り気のない爪がツヤツヤとライトに当てられて光っている。
「爪見るのが好きな人?」
「爪を見るのが好きな人っているの?」
「わからないけど」
ふふと、小さく笑う彼女を見て、腹のなかで熱がくすぶりはじめる。気が弱そうに見せている少し下がり気味の眉毛も、アルコールのせいでほんのりと赤みを帯びた小さな耳も、しっかりとフォークを握る清潔感のある手も、結構いいじゃんと思った。思ったよりも地味じゃないし。
彼女も俺に対して、少なくとも悪い印象は抱かなかったらしい。連絡先を交換し、次に会う約束を取り付けた。
「別れましょう。」
1年ちょっと前の彼女を思い出すと、当然のように2カ月前に最後に会った彼女を思い出す。
動揺して狂った手元のせいで、彼女の薬指にはべっとりとマニキュア液が付着していた。
「ごめん、すぐに……」
「大丈夫」
ぴしゃりと言い放たれた言葉は冷たく、なんとなく顔を上げられない。放り出されたままの指を、とりあえず……と塗っていく。薄いピンク色の爪がどんどん増えてきて、自分が何をしているのかわからなくなってくる。
「……ありがと。」
すべて塗り終わった指を一瞥すると、はみだした部分を取り出してきた除光液をしみ込ませたティッシュで拭きとっていく。
「サトコ、あのさ……」
「今日は泊っていって大丈夫。髪、ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ。」
そういうと、彼女は再生していたDVDを消してベッドにもぐりこんだ。向けられている小さな背中をぼんやりと眺める。あんな映画ばっかり観てるからだ。最近、彼女の家に来るたびに見せられる、女が男を倒すだけの映画を思い出す。女が自立心を持つと、こうやって反抗心を抱く。そして、俺をみじめにさせる。
次の日、早朝に俺は家を出て、次の週末には彼女の家に置きっぱなしにしていた荷物がすべて送られてきた。少ししたら、彼女から連絡が来るだろうと思っていたのに、彼女からは何一つ言ってくることもない。
「……先輩って、別れるのも巧そうっすよね」
まだ2杯しか飲んでいないのに、すでに顔を赤らめている渡辺さんにそういうと、恋バナか~とからかうように言ってくる。ちょっとムッと来たけれど、その怒りを顕わにするのも癪な気がして、とりあえず黙ってうなずいておく。
「そんなことないけどなぁ……」
「今って、彼女いるんでしたっけ」
「一応なー」
そう言って、グイっとビールを煽って、そうだなぁーと笑う。そんなに歳は違わないはずなのに、なんとなく余裕そうなのがまた腹が立ってくる。
「……俺、この間フラれたんすよ。ちょっと待てば、また連絡来るだろうと思ったんすけど」
「こないよなぁ。」
そりゃそうだ、とも言いたげな顔でうなづくもんだから、またムッとしてくる。
「そういえば、あの~取引先の美女はどうなった?」
「……大里さんですか?」
「そう、その人。なんか、一時期浮足立ってただろ。いい感じだったんじゃないのか」
すでに真っ赤になった顔で、こちらを伺うようにつまみのキュウリの浅漬けをポリポリと食む音が聞こえる。
「……はあ、まあ」
浮足立っていたのは事実だし、正直付き合いたいとも思っていた。仕事で会った大里さんは、スラリと身長が高くスレンダーという言葉が似合う。絶対にピンヒールだし、そうすると自然と近くなる目線の高さにドキドキした。過度な飾り気はないけれど、私服ではデニムが多いんです、と少し照れたように笑う姿はかわいいと思っても仕方がないだろう。
「うまくいかなかったのか」
「……っすね。なんか、うーん、なんでだろうな」
一度、食事に誘ってみた。彼女は結構乗り気だったし、会話も途切れることはなかった。帰り際、少しだけ絡んだ指に頭に浮かんできたのは、罪悪感よりももっとほのかな気持ちだったこともはっきりと覚えている。それなのに、俺はなぜ彼女とそのまま道を重ねることができなかったのだろう。
と肌を重ねたあと、むなしさが襲ってくる。隣に眠るのが大里さんだったら、とも思うし、の匂いがあまりにも自然で安心もする。どちらかを選べと言われたら、俺はきっと大里さんを選ぶんだろう。でも、俺は大里さんには選ばれなかった。
深い呼吸に切り替わりそうな、の気配を目を閉じて読んでいく。めちゃくちゃ美人なわけでもないけれど、清潔感のある爪に、華奢な手首が浮かんでくる。そういえば、俺はのこういうところが好きだったのかもしれないと思い出す。
「お前には、敬意ってもんがない。」
「ありますよ。飯つくってもらったら、お礼だっていうし。」
「それは、敬意ってよりもなぁ。……言いたいことはあんだけど、なんていえばいいかわからんし、それを言ってお前が納得するとは思わん。」
小さく笑った渡部さんは、そうだなぁとぼやきながら、メニューをパラパラとめくっていく。
「敬意ってなんすか」
「尊重する気持ちってやつだろ。」
「してますよ」
「お前は先入観が強すぎる。たぶん、女の人なら話してると気づくと思うぞ。それでもいいから、元カノはつきあってたんだろうけど。」
「……大里さんとも、話は盛り上がりました。」
「取引先相手の食事でテンション下げるほど、彼女が子供じゃないってことだろ」
そのまま遠くにいる店員を呼んでハイボールとたこわさを注文する。
「……まあ、結婚は絶対にしなくちゃいけないもんでもないし。でも、誰かといたいっていうなら、やっぱりどっか尊敬できる人と一緒にいれたほうがよくない?」
「渡辺さんは、彼女のこと尊敬していますか?」
「んー、絶対に割り勘を譲らないとことか、化粧がボロボロになりながらも仕事してるところとかは尊敬してるかなぁ」
そういって、届いたばかりのハイボールを煽った渡辺さんの表情は、会社で見たことがないくらいに柔らかくて、聞いたことを後悔した。こんなの、のろけられているだけじゃないか。自分のみじめさが際立ってしまった。
一人、ぽつりぽつりと微かな音を立てる雨のなか帰路につく。
俺はサトコのことを、どれくらい知っていただろう。思い出そうにも何も思い出せずに、目の前に広がるのは分かれる直前に女性が戦うドラマだか映画を観ていた背中ばかりだ。何度もデートをしたし、肌だって重ねたはずなのに。思い出そうとしても、どのサトコものっぺらぼうでどんな表情をしていたか覚えていない。俺は、何を見ていたんだろう。
「スミレの花」
付き合おうと宣言してからの初めてのデート。彼女が嬉しそうに笑っていたことを思い出す。その小さな紫の花を彼女は愛しそうに見つめ、なんか似ていると思ったんだ。はかなげで、かわいらしくて。でも、別れる直前の彼女は、俺が惹かれた彼女とは真逆な女に見えた。一体何を見ていた? 何を知りたいと思った?
真っ黒に塗りつぶされたページをめくっても、何も答えは出てこない。
彼女だけがその答えを知っていて、俺だけがこの場所に取り残されたまま。ピカピカに磨いてある革靴を眺めて、大きくため息をつく。緩やかに、ただひたすらに下降していくような気がする。俺はどこで間違えたのか、それを教えてくれる人はどこにもいない。
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