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結局、いまこの瞬間、大事にしたいものはこれだった。

部屋でひとり、カップラーメンを啜りながら泣きじゃくるほど惨めな日はない。

普段なら15分ほどでお昼を済ませ、PCから手を離すのが惜しい、とばかりに定位置に戻るのに、今日はちがった。

カップラーメンのふやけた麺を放置して、思うところあって開いた読みかけのエッセイの文字を追いながら、じわじわと目の前が涙で覆われていく。

悔しかった。

あんなに書きたい。と言っていたのに。書いていることが、書いて生きていることが、誇りで。いつもどうやったら書いて生きていけるか?ばかりを考えていたのに。

不安や、やらなきゃいけないこと、にかまけて「書くことで人の想いを伝えたい」という大切なアイデンティティを手放していることに気づいた。

いやむしろ、書くことが自分のアイデンティティだったなんて。という気持ちでもある。書くことだけに夢中だったときは、まるで気づかなかった。

こうでなきゃいけない、なんてことは何一つない。何を選んでもいい。自分で選べるんだ。

わかってる。そんなことは。わかっている。

何を選ぶことが、自分にとって幸せなのか。本当はちゃんとわかってる。

なのに、周囲の意見や社会への不安感から、こうした方がいいのではないか?こうじゃなきゃダメなんじゃないか?生きていけないのでは?

そんな声もむくむくと膨らみ、腹では決まっていることも頭で考え悩みだす。

自分でわかっているから、なおのこと惨めだ。

心の声より、他人や社会の大きな声に飲まれていく自分を、もうひとりの自分が「本当にそれでいいの?」と心配そうに眺めてみるのがわかるから、余計に悔しかった。

窓の外には久しぶりの雨が、ガラス窓を打ちつける。風がうねりを起こし、静寂の中の叫びのような雨音が、正直で好きだ。

わたしの力になりたいとアドバイスをしてくれる彼には、うまく答えられない苛立ちから、わかんないよ!と朝から涙声で八つ当たりをする始末で。

お昼は何を食べるか、と何度も聞いてくる母親に苛立つと、じゃあもう勝手にしなさい。と突き放される展開。

もう何もかもうまくいっていないような気持ちに諦めたように乱暴にカップラーメンをつくった。部屋に戻ったときにはもう涙ぐんでいて、藁もすがる思いで手に取ったのが、

文章に感情を乗せることだった。

結局、いまこの瞬間、大事にしたいものはこれだった。

どうして自分は、いろんなことがうまくできないんだろう?どうしてみんなと同じように、できないんだろう?

また始まった、自分責め。

ちゃんとわかってるなら、あとは周囲にそう伝えていくだけではないか。恐らく、何を選んでも生きていく上での不安感は取り除けないのだから、せめて、大切にしたいものを選んで不安になろうよ。

大切なものが何か、わかっている。だからもう悩まなくて大丈夫。伝えていこう。わたしはこう思う、を丁寧に粘り強く、信頼する人たちに。



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