故郷に起きた「真実の物語」を保存する

――ペマ・ツェテン監督『静かなるマニ石』論

三澤真美恵

『静かなるマニ石』予告編 The Silent Holly Stones Official Trailer

臙脂色の袈裟をはためかせ、少年が駆けていく。懐に大切そうに『西遊記』のVCDを抱えて。チベットの乾いた風のなか、黄色い砂埃が足元に舞い立つ。彼の浮き立つ心持ちのように。

チベット仏教の少年僧がVCDの『西遊記』に心を奪われる正月休みの四日間を描いた映画『静かなるマニ石』(二〇〇六年、カラー三五ミリフィルム、一〇二分、チベット語)の核心は、このシークエンスにあるのではないか。筆者はチベットについては全くの素人だが、この直感を頼りに、チベット映画の牽引者といわれるペマ・ツェテン監督による長編劇映画第一作『静かなるマニ石』の魅力を、徐暁東による監督との対話集『遇到万瑪才旦[ペマ・ツェテンに出会う]』[1]を参照しながら考えていきたい。監督はいう。

映画の物語が発生する場所は私の故郷だ。人々はいつも文字や映像で私の故郷を語るが、それらは常に私の故郷に払い除けられない神秘のベールをかぶせ、世の人々にこの世と隔絶した外部の桃源郷ないし野蛮で荒れはてた土地という感覚を与えてきた。これらの人はいつも自分の展示するものが誓って真実であると標榜するが、この種の真実は逆に人々をして私の故郷の面貌をさらに見えなくさせてしまい、あの土地で生活している私の親兄弟を見えなくさせてしまう。私はこのような「真実」は好きではない。私は自分の方式で故郷に起きた真実の物語を語りたいと渇望した(三六頁)。

『静かなるマニ石』をめぐる対話の冒頭におかれたこの監督の言葉は、同作が「自分の方式」で「真実の物語」を語ろうとした試みであること、その背景には、「人々」が語る「自分」の故郷に関する「真実」への不満、憤りがあることを告げている(ただし、監督はそれを「真実でない」とは言っていないことにも注意したい)。サイードが『オリエンタリズム』(一九七八年)[2]で明確にした不均衡な権力関係にもとづく他者表象、すなわち「西洋」が自らを文明化された理性的な自己としてイメージするために、「非西洋」を野蛮で奇怪な他者として表象する傾向は、グローバル化が進む今日でも決して終わっていない。オリエンタリズムは西洋と非西洋の間に限らず、不均衡な権力関係があるところにはいつでもどこでも見出され得る。

「自分の記憶を再現し保存した」

たとえば、映画『セルロイド・クローゼット』(1995年)では、同じ「西洋人」同士の間でもLGBTがいかに笑うべき存在、忌むべき存在として表象されてきたかを数々のハリウッド映画を挙げながら跡付けている。サイード以後、学術界では「紋切り型の他者表象を批判して悦に入る」アンチ・オリエンタリスト的教訓主義が繁盛したが、いっぽうの文化産業界でもこうした教訓主義に対応できる新たな意匠をこらした商品が生産されている、というブレット・ド・バリーの指摘もある[3]。他者表象をめぐる錯綜した状況が展開されるなか、ペマ・ツェテンは、「他者」として「見られる/語られる」客体としてのチベット人の側から、まさにその「見られている/語られている」ことによって構成される故郷の「真実の物語」を、自らが「見る/語る」主体となって語ることを渇望し、そこに誕生したのが「自分の記憶を再現し保存した」(三九頁)半自伝的な劇映画『静かなるマニ石』である。つまり、主人公の少年は僧であるという身分こそ異なるが、幼少期の監督自身ということになる。

正月休みで寺院から久しぶりに帰宅する途中、少年が父に連れられて挨拶に行ったマニ石彫りの老人は、彼が翌日再び寺院に戻る時にはすでに亡くなっている。マニ石とはチベット仏教の真言や経文などが彫られた石を指す。マニ石彫りは「消滅の危機に瀕した職業であり文化」だが、石は「ひとたび彫られれば、まさに『静かに』数百年、数千年とそこにある」(四〇頁)。それは今日見ても明日見てもおなじ石の塊だが、「実は、その内部ではひっそりと変化が生じている。ただし、それに気付くのは難しい。こうした現象は当時のチベットの状況と同じである。だから私は『静かなるマニ石』という題名にした」とペマ・ツェテンはいう(同前)。

チベットの現実、「無常」を描く

同様に、彼の過去の映画は、それぞれが描く時代ごとのチベットの現実に対応しているという。すなわち、『静かなるマニ石』は一九九〇年代初期、ほとんど気付かないが実はずっと変化が進行していた時期、『ティメー・クンデンを探して』(二〇〇八年、チベット語劇映画、カラー、一一二分、HD-CAM)ではふいに何かが違うことに気付くと実はすでにきわめて大きな変化が起きてしまっていた時期(『静かなるマニ石』ではまだ演じられていたチベット劇が「数年前までやっていたはずだが…」と失われた過去として人々に語られる)、『オールド・ドッグ』ではもはや惨烈な変化が明らかで「どうやっても取り返しのつかない」時期である(四〇−四一頁)。

大川謙作によれば、一九九〇年代なかばに宗教への規制と経済発展を同時に行うことでチベット内部におけるダライ・ラマと仏教の影響力を抑制する政策が中国政府によって強化され、一九九六年からは僧院の内部にまで共産党の工作チームが送り込まれて愛国主義教育キャンペーンが実施されたという[4]。だとすれば、『静かなるマニ石』に登場する僧院にも、嵐の前の静けさの中で「ひっそりと変化が生じていた」ことになる。星泉は、ペマ・ツェテンの小説には「喪失」が通奏低音のように響くと指摘する[5]。

映画においては、その「喪失」を生む「変化」(徐暁東のいう「消失の過程」、日本語字幕で記された『静かなるマニ石』中のセリフでいえば「無常」)が具体的な映像として再現され保存されているともいえる。この点、『オールド・ドック』(二〇一一年、チベット語劇映画、カラー、八一分、HD-CAM)や『タルロ』(二〇一五年、チベット語劇映画、モノクロ、一二三分、DCP)が再現する「変化」は目を背けたくなるほどに残酷だが、『静かなるマニ石』には「変化」の両義性、とりわけ変化がもたらす歓びが生き生きと描かれているのが印象的だ。

この映画に描かれるのは「まだ温情があり、……伝統的なものと新たなものとの関係についても、完全に衝突とまでは定義できない」(一〇九頁)世界である。

VCD『西遊記』との出会い

久しぶりに帰った実家で主人公の少年はVCD『西遊記』に出会う。それは商売に成功した兄がテレビやVCDデッキと共に街で買ってきたものだ。父は勝手に見ることを禁じるが、家族が村芝居に出かけている隙に祖父に見張りをしてもらい、少年は弟と二人で賑々しい音楽と共に孫悟空が活躍する画面に釘付けになる。さらには、お師匠さんであるジャンツォ先生にもこの『西遊記』を見せたいと、テレビとVCD一式を一日だけ貸してくれるように父に頼みこむ。赤い毛布でくるまれた機材一式は、『西遊記』を見たい、見せたい、という少年の気持ちのように大きくぱんぱんに膨らんで、馬の背に揺られていく。少年と父がお寺に戻ってジャンツォ先生の家にVCDを持ち込むと、「お正月休みだから」とジャンツォ先生も他の先生を呼び、少年も他の少年僧を呼んでくる。『西遊記』は面白いよ、孫悟空ってすごいんだよ、と興奮気味に語る少年は「ほら、これ孫悟空だよ」と村芝居の屋台で買った孫悟空のお面を嬉しそうに見せて足元の石に躓くはしゃぎようだ。集まった大人も子供も、狭い部屋のなか、まあるく刈られた頭を寄せ合って、中心に据えられたテレビを見つめている。

すると、どこで聞きつけたのか、翌日には七歳の化身ラマも『西遊記』を見たがっていると知らせが来る。少年は父の許しを得て、すでに見終わった一話分のVCDを手に立ち上がる。皆と一緒に続きが見られないことを気にするふうもなく、彼の顔はむしろ嬉しさに輝いている。以前、VCD『ティメー・クンデンの物語』[6]を見せてくれたことのある化身ラマに『西遊記』を見せてあげられるのだ。到着した化身ラマの家では、今度は「三蔵法師が経典を手にいれる回を化身ラマに見せたい」という指導僧の言葉で、少年は再びジャンツォ先生の家へ。こうして、VCDを懐にジャンツォ先生の家と化身ラマの家の間を行ったり来たり。乾いた土の坂道、掃き清められたお寺の回廊を、臙脂色の袈裟をはためかせて駆けていく少年の姿が、画面を右から左へ、左から右へ。繰り返される横移動は、心地よいリズムとなって私たちを揺する。『西遊記』を化身ラマに見せるために一所懸命に走る少年の姿に揺さぶられる。自分の大好きなものを人々に分かち与える歓びが、疾駆する少年の横移動のリズムとなって伝わってくるからだ。

映像に心を奪われた少年

「今夜ちょっとだけ見てもいい?」「あと一話だけ見てもいい?」と繰り返し語られる「もっと見たい」という気持ち。こうして少年がすでに『西遊記』にすっかり心を奪われたことに共感した私たちに示される映画の結末部分が秀逸だ。行きと同様に、機材一式を赤い毛布に包んで馬の背に積んで父が帰っていく。それを見送る少年は、いったん父に背を向けた後、再びくるっと身を翻して父を追いかけ「VCD置いていって。もっと見たい」とねだる。当然のことながら、それは許されないのだが、「じゃあ、VCDの箱だけでも」という少年の言葉に、父は中身を取り出し空のプラスチック・ケースを手渡してやる。少年は父の背を見送ってから、手の中の空箱をそっとなで、パコッとケースを開く。乾いた空気に、その音は、いかにも安っぽく響くのだが、少年は感極まった様子で空っぽのケースをじっと見つめる。像(イマージュ)とは「不在、或いは非在の対象物を思念する作用である」[7]。空っぽのケースは、テレビやデッキという機械がなければ再生できない映像作品、彼の心を奪って今ここにない『西遊記』を、これから少年が何度も頭の中で再現するための類同代理物(アナロゴン)である。ハッとしたように正月休み明けの大祈願会が始まることを思い出した少年は、脱兎のごとく駆け出してVCDの大きな空箱を自らも起居するお師匠さんの家に置きにいくのだが、テーブルの上にいったんは置いた空箱を、名残惜しそうに振り返る。ついに部屋を出て行こうとして、すぐまた駆け戻り、これまた一旦は部屋の壁に掛けた孫悟空の面をさっと手に取り、僧衣の懐にぐいっと押し込んでお堂に駆け戻っていく。お堂には僧たちがずらりと並んでいる。末席に座った少年は読経の儀式のなかに、僧院の日常のなかに戻っていく。だが、私たちは知っている。彼の僧衣の懐には、孫悟空のお面が押し込まれていることを。

VCDに心を奪われた少年は、もう二度とその興奮を知らなかった過去の自分に戻ることはない。ペマ・ツェテンがいうように「テレビは闖入者であり、人々の外部にあるものを持ち込んで、人々の生活を変えてしまう」(五六頁)。だが、この映画で物語の推進力となるのは、間違いなくこの闖入者たるVCDに対する主人公の少年の熱中であり、そこにはどうしても巡回の映画上映隊を追って隣村まで徒歩でも映画を見に行ったというペマ・ツェテン自身の少年時代が重なってみえる。監督自身、闖入者たる映画に熱中し、ついには自ら「外部」に出て中国映画のエリート養成機関ともいうべき北京電影学院で映画を学んだからこそ、「中国映画史上初のチベット人の監督脚本による、チベット人のいまの現実生活を反映した劇映画」(アジア新人賞最優秀監督賞受賞時の短評。三七頁)を製作できたとも考えられる。

映画のなかのチベットと、ペマ・ツェテン登場の衝撃

では、ペマ・ツェテン監督が登場する以前にチベットを描いた映画はどのようなものだったのか、ごく簡単に振り返ってみたい。日本に住む私たちにとって、チベットを描いた映画といえば、エディ・マーフィー主演の『ゴールデン・チャイルド』(一九八六年)や、ブラット・ピット主演の『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(一九九七年)、チョウ・ユンファ主演の『バレット・モンク』(二〇〇三年)などのハリウッド娯楽作を思い浮べる人がほとんどだろう。他方、中国映画史の文脈でまず挙がるのは、封建制チベットで奴隷状態にあったチベット農民を中国が解放したという筋の劇映画『農奴』(一九六三年)で(日本のウェブサイトでも『農奴』は「封切りの六五年当時までに日本で公開された唯一のチベットの映画」と紹介されている)[8]、映画史的には『白毛女』(一九五一年)などと同系列の共産党による人々の解放という公式の歴史観を再現した革命劇映画といえる。タイトル・ロールにはチベット文字が登場するが、セリフはすべて標準中国語に吹き替えられている。

一九八〇年代になると、陳凱歌、張芸謀らと同期の第五世代監督田壮壮がチベットの貧しい馬泥棒を描いた『盗馬賊』(一九八六年)をチベットで撮影し国際映画祭で高く評価されるが、これもセリフは標準中国語の吹き替えであった。

二〇世紀最後の年にはチベット人作家ザシダワの原作・脚本による『チベットの女/イシの生涯』(二〇〇〇年)が「オールチベットロケ、チベット人俳優、スタッフによる本物のチベット映画の誕生」[9]として登場した。セリフもチベット語である。藤井省三は同作を単純な政治宣伝映画ではないとして、「統治問題は棚上げして、できる限り誠実に動乱のチベット現代史を描こうとしている」[10]と見る。チベット語やチベット人のスタッフ、キャストにこだわった同作ではあるが、要となる監督は北京電影学院の副学長も務めた中国映画界の巨匠、漢人の謝飛[11]であった。一九九〇年代には、後述する独立ドキュメンタリー映画の世界でも『チベットのカトリック』(一九九二年、蒋樾監督)、『八廓街十六号』(一九九七年、段錦川監督)、『ゴンプーの幸福な生活』(一九九九年、季丹監督)など、チベットを題材とする作品が多く登場してきていた。ペマ・ツェテンが自分の故郷に「払い除けられない神秘のベール」をかけたと感じていたのがこれらの作品なのか否かはわからない。だが、彼が北京電影学院に入ったのは二〇〇二年。中国映画界におけるチベットへの注目が高まっていた時期と重なっていたことは確かだろう。

こうしたなか満を持して現れたのがチベット人監督ペマ・ツェテンが故郷チベットで撮った北京電影学院の卒業製作であり監督第一作でもある『草原』(二〇〇四年、チベット語劇映画、二二分、カラー三五ミリフィルム)である。それが、どれだけ大きなインパクトを与えたか、容易に想像がつくというものだ。しかし、急いで付け加えなくてはいけないのは、ペマ・ツェテンの映画を、チベット人の監督がチベット語を用いてチベットで撮った映画だから政治的に正しい、芸術的に素晴らしいなどという本質主義的な議論はナンセンスだ、ということである。彼の映画は、第一作の『草原』においてすでに簡潔で力強い構図と、チベットの風や砂埃が実際に肌に感じられるかのようなリアリズムの話法で見るものを圧倒する風格を備えている。

「龍印」のあるインディペンデント映画

北京電影学院では、教員がアントニオーニやファスビンダー、タルコフスキーらの作品を海外で集めてきて授業で見せており[12]、第五世代も含めた教え子の作品をそうした海外の名作になぞらえて授業で扱うことも多かった[13]。『タルロ』DVD米国版の特典映像にはペマ・ツェテンが二〇一六年にニューヨーク近代美術館で行ったティーチインの様子が収められているが、理髪店で鏡に写ったタルロがフレームの端にあるのは彼の社会的な周縁性を示すものであり、ラスト近くの警察署の場面で主人公と署長が鏡に映る空間を区切るようにストーブの煙突と壁の文字(鏡像のため左右が逆さになっている)を配した構図についても、タルロが警察署長とは切り分けられた空間、統治される人民の側(逆さになった「人」という文字の「下」)にいることが表現されていると自ら解説している。映画的知識を専門的に学んだ「学院派」(二頁)ならではのロジカルな説明からは、ささやくように静かで穏やかな口調のなかに、周到で緻密な映像設計への熱いこだわりが感じられる。

北京電影学院では教員が卒業生の作品を授業内で取り上げるほかに、卒業生の側も卒業後の最初の作品をまず母校で上映するという習慣があり、ペマ・ツェテンもまた、同学院の卒業生たる張元や賈樟柯、王兵など、いわゆる「第六世代」による漢語映画の動向を同時代的に把握してきたと思われる。第六世代とは、第五世代までとは異なり、改革開放によって既存の映画製作配給体制が解体再編されるなか、体制の外側で撮り始めた世代であり、「歴史認識が比較的自由になり、西洋の出版物や芸術と盛んに触れ合うことのできた時代」[14]に育ち、青少年期に六四天安門事件を経験した世代でもある。彼らの作品が「地下(アンダーグラウンド)映画」と呼称されたのは、中国には存在しないはずの社会の矛盾に焦点をあてたため検閲を受けて既存の配給ルートで上映できず、もっぱら「地下」ルートで鑑賞されていたためである。しかし、現在では「地下映画」より「独立(インディペンデント)映画」という呼称のほうがよく聞かれる。それは、張元や賈樟柯などかつての「地下映画」の製作者も現在では検閲を受けて一般の劇場で上映される作品も製作しており、それらはもはや字義的には「地下映画」とは呼べないが体制に依存しない「独立精神」をもった作品である、というニュアンスで用いられているようだ。ペマ・ツェテン監督作『オールド・ドッグ』の製作にも関わった「影弟工作室(インディ・ワークショップ)」のプロデューサーであり「中国独立影像年度展」主催者の一人でもある張献民は、「独立映画」の定義が難しい事例としてペマ・ツェテンやソンタルジャ監督の作品を挙げ、「龍印のある映画だから独立精神がないとは言えない」という発言をしている[15]。

「龍印(ドラゴン・マーク)」とは、映画の冒頭に登場する「国家広播電影電視総局電影事業管理局」の「公映許可証」の龍を模ったマークであり、検閲にパスしたことを示すものである。日本に住む私たちには、ペマ・ツェテンの作品は中国とは異なる言語や風俗習慣をもつチベット映画に見えるのだが、張献民の発言を読んであらためてはっと気づくのは、ペマ・ツェテンの作品が「チベット映画」であるのみならず龍印付きの「中国映画」であり、なおかつ「主旋律映画」(国家イデオロギーを鼓吹する映画)とは異なる「中国独立映画」と見なされているという二重性(ないし三重性)である。張献民の意図は決してペマ・ツェテンの作品を「中国映画」に回収しようとするところにはなく、むしろ「中国映画」という枠組みそのものを内破する「独立精神」を共有するものとして、ペマ・ツェテン作品との連帯を表明しようとするところにあると思われる[16]。

インディペンデント映画の問題意識

そして、この「独立精神」との関係で看過できないのが、さきほど少し触れた「新記録片(新ドキュメンタリー映画)」ないし「新記録運動」と呼ばれる独立ドキュメンタリーの動向である[17]。呂新雨によれば、新記録運動は一九八〇年代の終わりから一九九〇年代初め、専制への反逆のみならず、西洋を範として現代化を求める理想主義ユートピアに対する反省として始まったという[18]。それ以前の中国では、記録映像とはあくまでも国家事業として、その栄光を称えるために製作されてきたものであった。これに対して、独立ドキュメンタリーの製作者は、「主旋律映画」には取り上げられない私的な領域や現実の社会問題に目を向けたのである。この動向は、ここまで読んだ読者諸賢には容易に推察されることと思うが、第六世代と時を同じくして登場しており、キーパーソンも重複している[19]。そもそも劇映画に分類される第六世代の張元や賈樟柯の作品は当初からドキュメンタリー的とされてきたし、その後実際にドキュメンタリーに分類される作品も撮っている。他方、いまや中国ドキュメンタリーの代表的作家となった王兵も劇映画に挑戦している。つまり、第六世代にせよ、新記録運動にせよ、「独立映画」においては、中国の――社会主義イデオロギーが徹底的に形骸化し貧富の差が極大化したために凄まじい勢いで矛盾が噴出している――現実に焦点をあてようとするとき、共通して、劇映画かドキュメンタリー映画かという境界線が融解するような地点に立ち至っているといえる。ペマ・ツェテンが語る「真実の物語」への渇望も、まさにそうした「アクチュアリティ」への関心に根ざしているように思う。

「いま、ここ」にある中心としてのチベット

そして、またそれゆえに、ペマ・ツェテンの映画は、その問題意識を別様に切り拓く結節点といえるかもしれない。なぜなら、新記録運動において「チベットは遠方の象徴および近代文明と異なる異質性」として「新たに一つの逆照的な視座」となる傾向もみられるからである[20]。かつて、一九八〇―一九九〇年代の第五世代監督の映画が描いた「陝西や甘粛など西部地域の見慣れぬ粗暴さ」、文化大革命後の「自然への回帰」に、レイ・チョウは「文化が危機に際したおりに出現する同時進行的で同時代的な表象構造」としての「プリミティブへの情熱」を見出した[21]。それは、国家暴力の非人間性に対する抗議の記号であると同時に、起源を探求することで最終的には(監督の意図とは別に)国家が求めていたものへの応答にもなったとして、彼女はそこに「漢民族の自民族中心主義の下に潜んでいる無意識」、すなわち中国自身の帝国主義に対する中国知識人の無頓着があることを喝破した[22]。第六世代や新記録運動の担い手たちは、そうした批判に自覚的な地点から出発していると思われる。それでも、「逆照的な視座」という呂新雨の評言が端的に示すように、そこにはどうしても、中国の現在を照らしだす「視座」としてのチベットという「中心/周縁」の構図がつきまとう。彼らはそうした自身の発話の位置(「見る/語る主体」の側にあること)を意識しながら、その構図を自己批判的に用いたり、その構図を脱臼させたりすることで世界を別様にまなざそうとしているともいえる[23]。したがって、(繰り返しになるが)チベット出身者以外にチベットの映画は撮れないなどという本質主義的な理論をしたいわけではない。

そうではないが、しかし、チベットを描いた映画を振り返ってみるとき、ペマ・ツェテンが別の何かを逆から照らし出す「視座」としてのチベット(周縁)ではなく、自らの生命が依って立つ故郷としてのチベット(中心)を、すなわち「遠方の象徴および近代文明と異なる異質性」としてのチベットではなく、「いま、ここ」としてのチベット、「現代化」にもみくちゃにされているチベットと同時に「現代化」を寿ぐチベットまでをも「自分の方式」で語っていることは、やはり彼の映画を決定的に特徴づけている。

中国語とチベット語の間、小説と映画の間

 ここで重要だと思われるのは、ペマ・ツェテンが標準中国語とチベット語の両方で小説を書くバイリンガルの作家でもあることだ。北京電影学院に進む以前、彼にはチベットの小学校教師や海南チベット族自治州省政府で勤務した社会人経験もあり、西北民族学院の修士課程では「翻訳の技法をみっちり学んだ」という[24]。彼の小説にはチベット語読者向けに書き、漢語には翻訳しない作品もある[25]。漢語の短編『黄昏のパルコル』(パルコル=八廓街とはラサ中心部にある巡礼路の名)では、漢語が話せるチベット人少年が、漢語話者の観光客と自分の祖母との間を通訳する(といっても実は相当に恣意的な訳であることが可笑しみを生む)様子をチベット人ではないがチベット語のわかる主人公が描写する場面がある[26]。示唆的なのは、この主人公がパルコルで出会う観光客に向かって「ここは世界の中心なんだよ」と訴え続けることだ。だが、その説明は巡礼者に向かって発されることはない。なぜなら「彼らにとってそれはわかりきったことだからだ」[27]。

翻訳がひとつの記号体系によってなる意味世界を解体し別の記号体系によってなる意味世界を新たに構築する作業であるとすれば、自ら翻訳に携わるバイリンガル作家であるペマ・ツェテンにとって、漢語世界とチベット語世界における発話の対象、発話の位置、そのズレが生む効果に自覚的であることは、ある意味で当然のことだろう。

レイ・チョウが第五世代による中国映画を民族誌(エスノグラフィ)と評し、複数文化間の「文化翻訳」として捉えたことを思い出しても良いかもしれない。チョウは、ヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の使命」から、次の箇所を引用する。「翻訳者の義務は、翻訳者自身の言語において、他の言語の呪文に縛られている純粋言語を解放すること。そしてその作品を再創造することを通じて、作品に監禁されている言語を解放することである」[28]。ペマ・ツェテンにとっては小説を書くこと、翻訳をすること、映画を撮ること、すべてが故郷に起きる「真実の物語」を「自分の方式」で語るための「文化翻訳」の作業なのかもしれない。

「時間に防腐処理を施す」

そのうえで、あらためてペマ・ツェテンが、小説とは異なる映画というメディアに魅了される理由は何か考えてみたい。ここで、『静かなるマニ石』をめぐる対話で「映画は記憶を保存するひとつの良い方法である」と述べていたことを思い出そう。そこには、カメラという機械の目で現実を捉え「時間に防腐処理を施す」[29]ことへの期待があるのかもしれない。 

ちょうど、わたしたちが未来において過去を思い出す縁(よすが)として今この瞬間に写真を撮るように、彼は過去のチベットの記憶を、今のチベットで映画に再現し、未来のチベットに向けて保存する。それは(映画を完成させた後の)未来(の自分を含めた観客)に向けられている。ロラン・バルトは『明るい部屋――写真についての覚書』のなかで、写真を見る者を刺し貫く衝撃(バルトの言葉でいう「プンクトゥム」)としての「時間」について、死刑執行を控えた男の写真を取り上げて次のように述べる。

「私はこの写真から、それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る。……被写体がすでに死んでいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである」[30]。

堀潤之は、このバルトの議論を、その四半世紀前にアンドレ・バザンによって示された次のような着想を発展させたものと指摘する[31]。すなわち「写真はその瞬間性ゆえに、一瞬の時間しかとらえることができず、その意味では、不完全な技術」であるのに対して、「対象の時間を型取りしつつ、さらにその持続の痕跡までもつかみ取るという異様なパラドックスを実現したのが映画なのである」[32]。書字による描写にしろ、絵筆による絵画にしろ、人の手を経るものには必ず主観による取捨選択が入り込むことを免れないのに対し、「非人間的なカメラのレンズは知覚の慣習や先入観から自由であることによって、…人間によって主観的に構成される以前に存在する現実の姿をもたらしてくれる」[33]。

一つのフレームのなかに定着された過去と未来、二つの世界

このように現実をつかみとる機械の目によって、『静かなるマニ石』で「一切は、みな変化のなかにある」(四九頁)ことが鮮烈に示されるのが、一方に正月の出し物として伝統チベット演劇「ティメー・クンデン」が(おそらくは無料で)村人によって演じられる広場、もう一方に一人一元の入場料金をとって香港映画の興行が行われている掘っ建て小屋を対照的に見せる場面だろう。ティメー・クンデン王子のお布施に涙を流して見入る村芝居の観客の多くは老人たちで、掘っ建て小屋のテレビ画面にビデオデッキで映される刺激的なキスシーンや騒々しいアクションに見入っているのは子供や若者たちだ。私たちは村芝居の観客と香港映画の観客のそれぞれのショットに「それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去」を同時に、映画に定着された「現在時」のなかに読み取る。

さらに、劇中にはチベット演劇の広場と映画小屋との両方が同じ空間にあることを示すロング・ショットがある。映画小屋は、丘の上に位置する広場と共にフレームに収まるよう、やや下った場所にスタッフがわざわざ建てたものだという。「こうすることで、この場面は完成された、真実のものになる」(四六頁)。なぜ、もとあった自然のままの風景のなかに小屋を造設したことによって、この場面が「真実」になるのか? それは、小屋の増設によって、このショットが一望の下に「彼らは同じ土地に生きているが、すでに二つの世界に分け隔てられている」(同前)ことを視覚化するからである。だとすれば、この場面が与える鮮烈な印象は、そこに未来と過去とが同時に定着され、主観的に構成される以前に存在するものと主観的に構成したからこそ存在するものとが同時に織り込まれることで監督が表現したいと渇望した「真実」[34]が立ち現れてくることに負っているのではないだろうか。

高揚感か、喪失感か!?

最後に、冒頭に挙げた少年がVCDを懐に抱えて疾駆する場面に戻ろう。ここは、筆者には少年の(あるいはペマ・ツェテン自身の)映像作品に対する熱中、自分の大好きなものを人々に分かち与える利他の歓びが躍動する場面と思われた。だが、監督が対話集で明かしたのは、まったく異なる意図であった。「少年はずっとDVDを運んでばかりで、自分はまったく見ることができない。このことによって何を表現したかったのか」という徐暁東の問いに対して、監督は次のように回答する。

主として彼の喪失感を表現するためだ。絶え間なく走ることで、一種の喪失感を生み出すことができる。最後に、法会がまもなく始まるところで、父親はDVDを持って帰ろうとする。この時、失意の情緒が頂点に達する。その前の場面では、あのように何度も行き来して走ることで登場人物と観客の情緒を不断に推し進める必要があるのだ(五七頁)。

 なんと! 映像作品に対する熱中とそれを分かち合う歓びが溢れる高揚感として受け止めた場面は、監督の意図では喪失感を生み出すための伏線だったことになる。まるきり逆ではないか。私の受けた印象は誤りなのか? もちろん、監督の意図と異なっているという意味では誤りである。だが、「もし最終的な作品が芸術家の意識のうちにあったさまざまな意図の合計でしかないならば、それは大した値打ちのあるものにはならないだろう。…ある作品の質の高さと深遠さはまさしく、創作者がそこに盛り込もうとしたものと、それが実際に含んでいるもののあいだの隔たりによって測られるのだ」[35]。ならば、監督の意図とは逆の印象すら与えてしまうこの場面は、『静かなるマニ石』が創作者の意図の合計を超えた、深遠さをもった映画であることを証すことになる。実はペマ・ツェテン自身、『タルロ』について、なぜ小説という形式で表現した物語をあらためて映画というメディアで表現するのかと聞かれて、「表現したいという欲望のせいだろう。小説のように純粋に個人的な表現では満足できないのかも。わからないが」(一八九頁)と答えている。つまり、監督が小説と同時に映画でも表現を行う理由には、個人が意図せざる効果、すなわち共同創作ならではの化学反応ないし現場で偶発的に生まれる事件への期待もあるのではないかと思われる。

偶発的な事件、としての映画

そして、この場面に込めた監督の意図を知った上であらためて映画を見返したところ、先の印象を決定付けていたのは、少年僧を演じた役者(彼は当時、実際に修行中の僧であった)の笑顔だったことに気付いた。少年がVCDを届けるよういわれて立ち上がる場面。彼にはまったく不満そうな様子はない。むしろ、思わずこぼれ出たという感じでふっと微笑むのである。監督の詩的な表現を借りれば、「彼の笑顔にはわざとらしさがなく、水面にできた波紋のように自然で、優雅な味わいがあった、そこには発生と消失のプロセスがあった」(五一頁)。この笑顔が、彼が走っている場面に対する印象を左右したのである。

「映画を撮っている間、彼はいつもこらえきれずに笑っていた。…撮影スタッフの録音技師がどうして笑うんだと尋ねたが、彼にも答えることはできなかった、ただ理由もなく楽しかったのだ」(五一頁)。

共同創作である映画には、どうやっても監督の意図をはみ出してしまう部分がある。非人間であるカメラもまた、監督の意図にかかわらず、撮影対象である少年の真実、修行中の僧である彼が映画の現場で感じていた楽しさを捉えてしまった。つまり、『静かなるマニ石』は、撮影中の少年の身に起きた「変化」をも、そのまま映画に定着させてしまったのだ。つまり、これは修行僧の少年が映画製作と出会ったことによる「変化」を記録したノンフィクション、参与観察的なドキュメンタリー映画でもある。後に還俗した少年は「あたかも魂が飛び去ってしまったかのように…笑顔まで完全に世俗化してしまった」(五一頁)という。燕脂色の僧衣をはためかせて駆けていく少年に、私たちは「それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る」。これぞまさに、ペマ・ツェテンの故郷で起きた「真実の物語」としての映画ではないだろうか。


『チベット文学と映画制作の現在 セルニャ』六号(二〇一九年三月一〇日発行)表紙
同誌のウェブサイトURL:https://tibetanliterature.blogspot.com/p/sernya.html

初出について

『チベット文学と映画制作の現在 セルニャ』六号(二〇一九年三月一〇日発行)掲載の拙稿「故郷に起きた「真実の物語」を保存する――『静かなるマニ石』論」(一八六-一九八頁)を、SERNYA編集部の許可を得て、二〇二二年九月二〇日に、こちらの三澤研究室noteにアップしました。その際に、ルビをカッコ書きに、傍点を下線に改め、誤記を修正し(「国家広播電影電視双極電影事業管理局」→「国家広播電影電視総局電影事業管理局」)、小見出しと注記34を加えるなど一部をウェブ用に変更しました。


[1] 二〇一七年、杭州:中国美術学院出版社。同書は大川謙作氏にご教示いただいた。以下、同書からの引用は丸括弧内に頁番号のみを付して出典を示すものとし、特に説明の無い限り引用箇所の翻訳は筆者による。

[2]エドワード・サイード『オリエンタリズム』今沢紀子訳、板垣雄三・杉田英明監修、一九八六年、平凡社テオリア叢書。

[3] ブレット・ド・バリー「間=文化的イマジナリーにおけるオリエンタリズム――D・クローネンバーグとW・ギブスンにおける蝶々伝説」村田泰子訳、ひろたまさき、キャロル・グラッグ編『記憶が語り始める』二〇〇六年、東京大学出版会。

[4] 大川謙作「「包摂の語り」とその新展開――チベットをめぐる国民統合の諸問題」『史潮』(歴史学会)新七九号、二〇一六年六月、五一−八一頁。

[5] ペマ・ツェテン『ティメー・クンデンを探して』大川謙作・星泉訳、チベット文学研究会編、二〇一三年、勉誠出版。同書所収の星泉による「あとがき」「解説」(三八七−四〇七頁)には、ペマ・ツェテンの生い立ちも紹介されている。

[6] 『ティメー・クンデンの物語』については、三浦順子「『ティメー・クンデン王子の物語』と利他の心」(『セルニャ』第一号、二〇一三年一二月、六七―六九頁)を参照のこと。

[7] ジャン・ポール・サルトル『想像力の問題』平井啓之訳、一九五五年、人文書院、四二頁。

[8] 「映画.com」(https://eiga.com/movie/47663/)、最終閲覧日:二〇一八年十一月一日。

[9] 「Bitters End配給作品『チベットの女/イシの生涯』公式サイト」(http://www.bitters.co.jp/tibet/kaisetu.html)、最終閲覧日:二〇一八年十一月一八日。原作は以下の邦訳がある。ザシダワ「冥」牧田英二訳『季刊中国現代小説』第二巻二六号通号六二号、二七―五〇頁。

[10] 藤井省三『魯迅と紹興酒――お酒で読み解く現代中国文化史』二〇一八年、東方選書、一六一頁。

[11] 謝飛は第五世代の張芸謀ら監督たちの教官でもあった。『香魂女-湖に生きる』でベルリン国際映画祭グランプリ、『草原の愛-モンゴリアン・テール』でモントリオール国際映画祭監督賞を受賞(前掲、「Bitters End配給作品『チベットの女/イシの生涯』公式サイト」)。

[12] 王兵(一九九五〜一九九六年に同学院で学んだ)の言葉(中山大樹『現代中国独立電影』二〇一三年、講談社、一〇三頁)。

[13] 一九九三年に北京電影学院に入学し、同級生でもある賈樟柯が監督した『一瞬の夢』(一九九七年)の小武役で知られ、現在は独立映画のプロデューサーや映画祭ディレクターも務める王宏偉の言葉(前掲、中山大樹『現代中国独立電影』一九頁)。

[14] 王宏偉の言葉。前掲、中山大樹『現代中国独立電影』二〇頁。

[15] 前掲、中山大樹『現代中国独立電影』五六―五八頁。前掲の徐暁東『遇到万玛才旦』には、ペマ・ツェテン、張献民、賈樟柯が和やかに談笑している写真も掲載されている(一五九頁)。

[16] この点について参考になるのは、「発見と冒険の中国文学」シリーズ全八巻(一九九〇―一九九一年、JICC出版局)で「巴金・台湾文学・チベット文学」の三巻を企画・編集した山口守が、台湾文学やチベット文学を同シリーズに収めたことについて「中国文学の多様性を示すためではなく、中国文学という枠組みを脱構築する意図」があったと述べていることだ(山口守「本質主義を超えて」『セルニャ』第四号、二〇一七年二月、一六〇−一六六頁)。

[17] 林旭東によれば、新たなドキュメンタリー作品群が中国で初めて比較的集中して上映されたのは、一九九一年の北京広播学院主催第一回ドキュメンタリー学術シンポジウムだという。その際「非公開の「新ドキュメンタリー宣言」の存在」が噂され、同年の第16回香港国際映画祭で監督の時間(監督名)が、自らの作品を「新ドキュメンタリー」と位置付ける文章をカタログに寄せたのが「新ドキュメンタリー」という概念が文字資料として公式に用いられた最初であったという。林旭東「中国大陸におけるドキュメンタリー(映画のドキュメンタリー性の変遷第二弾)」秋山珠子訳、山形国際ドキュメンタリー映画祭『Documentary Box』#26(https://www.yidff.jp/docbox/26/box26-3.html)、最終閲覧日:二〇一八年十一月一八日。

[18] 呂新雨「中国“新記録運動”の力と痛み」佐藤賢訳『季刊 軍縮地球市民』第一一号(二〇〇八年冬)。

[19] 前掲、林旭東「中国大陸におけるドキュメンタリー(映画のドキュメンタリー性の変遷第二弾)」。

[20] 前掲、呂新雨「中国新記録運動の力と痛み」。

[21] レイ・チョウ『プリミティブへの情熱――中国・女性・映画』本橋哲也・吉原ゆかり訳、一九九九年、青土社、六三―七五頁。

[22] 同前、八五頁。

[23] 筆者は未見だが、呂新雨によれば、『八廓街十六号』(一九九七年、段錦川監督)は遠方にユートピアを求める意義に「終焉を宣告」した作品と評価される(前掲、呂新雨「中国新記録運動の力と痛み」)。また、チベット内部におけるマイノリティとしてのカトリック教徒に着目した『チベットのカトリック』(一九九二年、蒋樾監督)もユートピア的とは異なるチベットの一面を浮かび上がらせている。

[24] 前掲、星泉「解説」『ティメー・クンデンを探して』、三八八頁。

[25] 星泉によるペマ・ツェテンの小説「日曜日」の「作品解説」『セルニャ』第二号、二〇一五年二月、九五頁。

[26] ペマ・ツェテン「黄昏のパルコル」大川謙作訳『セルニャ』第二号、二〇一五年二月、七六−八六頁。

[27] 同前、七六-七七頁。

[28] 前掲、レイ・チョウ『プリミティブへの情熱――中国・女性・映画』二七八頁。浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』所収版「翻訳者の使命」(内村博信訳)(四〇七―四〇八頁)では、以下の通り。「異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること、作品のなかに囚われているものを言語置換[改作]のなかで解放することが、翻訳者の使命にほかならない」。

[29] アンドレ・バザン「写真映像の存在論」野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳『映画とは何か(上)』二〇一五年、岩波文庫、一八頁。

[30] ロラン・バルト『明るい部屋――写真についての覚書』花輪光訳、一九九七年、みすず書房、一一八―一一九頁

[31] 堀潤之「パランプセストとしての「写真映像の存在論」――マルロー、サルトル、バザン以前のバザン」『アンドレ・バザン研究』第二号、二〇一八年三月、三〇−五五頁。

[32] アンドレ・バザン「映画と演劇」前掲『映画とは何か(上)』二五一−二五二頁。

[33] 伊津野知多「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」『アンドレ・バザン研究』第二号、二〇一八年三月、一二一頁。

[34] 「真実」と「虚構」の境界線について尋ねられたペマ・ツェテンは「境界線は存在しない。「真実」とは私にとって、主として情感の真実だからだ」(二二二頁)と応じている。

[35] アンドレ・バザン「批評に関する考察」野崎歓訳『アンドレ・バザン研究』第二号、二〇一八年三月、一六九頁。

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