見出し画像

発達障害というテーマとのご縁

 先週突然「発達障害の子どもたちの学習支援に関わる資格を取るための勉強をしている」とお話しましたけれども,無事試験に合格いたしました。ほっ。でもこれはまだ一番下っ端の資格なので,今後上級資格にも順次チャレンジしていきたいと思っている。昨日もあやうく「災害時(子どもの)ひきとり訓練」をすっぽかしかけたウッカリ脳みそではあるが,しっかり頑張りたい。いやしかしムスメよ,「お母さん迎えに来てくれるのかなぁ」とハラハラさせてごめんよー。ひとりポツンと校庭に残されることにならんで,よかったわぁ。学校から聞こえてきた「訓練!訓練!」で,はっと思いだしたお母さんグッジョブちゃう?

 さて「発達障害」というテーマにここ10年くらいずっとご縁があるのだが,その出会いは私にとって本当に衝撃的なものだった。ずいぶん前にnoteでも少し書いたと思うのだが,何気なく手に取った一冊の本が,私に大きな,ものすごく大きな変化というか転換を強いてきたのである。その本は,綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さん共著の「発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい」。発達障害の診断を受けた綾屋さんがパートナーの熊谷さんとともに,ご自身の困っていること,その経験を記述し,医学的診断やカテゴリーに依拠せずに,どんなメカニズムでその現象が起こっているのかを自ら探究するという内容である。

 当時の私があまりに無知・不勉強だったせいもあるが,(ナースとして)外側からみているものと,当事者の人たちが内側で経験していることの,あまりの乖離に愕然とした。そして「こころの問題」として意識的にも,無意識的にもとらえていた多くのことが,それぞれの知覚の差異(ぶっちゃけ身体の問題)から生じているのだと知った時には,「なんてこった!!」と頭を抱えて懺悔したくなった。

 その人が今そのようであって,そしてその人はそのことに困っている。
 それを私は「こころの問題」っていうブラックボックスに放り込んでいただけだったかもしれない。
 でも,もしかしたらその人はそのもっと手前で―見ること,聞くこと,感じること,それらを合わせて判断すること,そして表現すること―で困っているんじゃないか。
 もしそうだとしたら・・・

 手を差し伸べるべきところが全然違ったじゃないか!!
 と,白目をむいて後ろに倒れ込みそうになった。

 極端な話,骨折して歩けないっていう人に対して,「痛い,つらい。」という話を共感しながら聞いて「そのままでいいんですよ。」と寄り添う,みたいな頓珍漢なことを自分がしてたんじゃないかっていうキョーフですよ。いや,まずレントゲンとって,固定するなりして,当面歩けないんなら杖を用意して・・・ってするでしょ。そのケアなしに「大丈夫ですよー」ってただ寄り添うだけのカンゴシさんなんて,なんのコントだ?って言われても仕方がない。

 もちろん発達障害は骨折と違って,原因が特定されているわけでも,治療法が確立されているわけでもない。そもそも,発達障害に対して治療という概念自体がそぐわないと常々思っている。だから骨折への対応と同じ,というわけにはいかないのだが,それにしても,だ。もっと具体的にできる手当てをしていたら,彼・彼女たちはその痛みや辛さを感じずに済んだかもしれないのだ。

 例えば割とよくある訴えに,「人混みが怖い・ニガテ」がある。もちろんそこに「こころの問題」なるものもあるだろう。でも,もしかしたら感覚過敏があって音や光の刺激にさらされること自体が辛く,イヤーマフ(遮音のイヤフォン)&サングラスという物理的対策によって人混みを乗り切れてしまうかもしれないのだ。もちろんそうじゃない場合もある。でも私が言いたいのは,

 順番を間違えたらあかんな。
 ということなんである。

 やっぱりまずは感覚を含めた身体に何か原因があるんじゃないかと手がかりを求め,その可能性が除外された時に初めて「こころの問題」に取りかかっても遅くはなかろう。イヤーマフやサングラスで解決できることを,えんえん「こころの問題」にされて苦しみ悩み続ける人のことを思ったら,「まず身体をみる」が鉄則になるはずである。そんなの当たり前じゃないか!と思われるだろうけれど,その当たり前のことをできていなかった時期が私にも実際あったのだ。

 そう。
 まさか目の前にいる人が,私とは全く違った仕方で世界から刺激を受け取っているとは。
 そしてそれも私とは違った仕方で処理されて,全く別様の経験をしているとは。
 見えないわけじゃない。聞こえないわけじゃない。話せないわけじゃない。
 でも,私と同じように見て,聞いて,話しているのでは,ない。

 そのことを前提にしなくちゃいけないんだ,と気づいた時。
 私に不可逆的な変化が訪れた。

 いわゆる「コミュニケーションの障害」なんつって当事者の方々に一方的に押しつけられている問題も,「身体の差異」に注意を払うようになった。目の前にいるその人の知覚とその処理にどんな特性があるだろうか,注意の向け方や維持の仕方,認知的な特性や理解の仕方はどうなっているだろう。そういうことを考えずにはいられなくなったのである。そして何かうまくいかない,伝わらない,誤解が生じる・・・という時まず真っ先に省みるのは,己の振る舞いになった。ゼロか百かのコントラストの激しい認知の仕方をする方に対して,私は曖昧な話し方をしてしまったんじゃないだろうか。細部に注意が向いてしまう方に対して,余計な情報になる感情的な表現を控えてビジネスライクでフラットな口調にしたほうがよかったんじゃないか。どうしたら,私とは異なる仕方で理解をする方に,分かりやすく伝えることができるのだろう?その構えがデフォルトになるというのは要するに,「今起こっている当のこと」は「お互いさま」になるというか,双方が「こと」の当事者になるということだった。「治療」という概念がそぐわないというのも実はこの関係性においてであり,一方が他方に「正しいありかた」を強いる(治療や矯正)のではなく,違いがありながらもなんとかやっていくことを志向する関係性が生まれたからである。

 結局持って生まれた脳みその特性は,そうそう変えることができない。そんな脳みそを擁す身体と,別の脳みそを擁す身体とが出会っていろんなことが起こっているのである。その「こと」においては,どちらかに問題が偏在しているんじゃなくて,身体と身体の接面,身体と世界との接面で何がしかが起こっているんだと考えるのが理に適っているように思う。

 でも,発達障害の当事者といわれる方々の置かれている状況は今なおシビアである。「コミュ障」などといってその非を一方的に負わされているのが現状だ。

 なんとかならないものか。

 色々な模索の中で希望を見出したのが,子どもたちへの教育―学習支援を含む―だった。その経緯については,また後日。

細々noteですが、毎週の更新を楽しみにしているよ!と思ってくださる方はサポートして頂けると嬉しいです。頂いたサポートは、梟文庫のハンドメイドサークル「FancyCaravan」の活動費(マルシェの出店料等)にあてさせて頂きます。