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習い事も高校も「出資」スタイル

Facebookの投稿から。
よりくだけた口調なのお許しください。↓↓ 

 毎年恒例の予算会議。
 
 我が家では毎年家計の収支報告と、次の年に「何にどれだけお金を使う(使いたい)か」を話しあって予算を決める会議をしている。まぁ財務大臣が私なんで、収支報告はほぼどんぶりっていうか鍋っていうかザルって感じで、「まぁ想定貯蓄額は残ってるな!よしよし。」ぐらいになっちゃうんだけど。

 もちろんムスメさまも小学生の時から出席を義務づけられていて、我が家の収入額も支出額もご存知である。そのうえで、「自分は何にどれだけお金を使いたいと考え、予算として要求するか」を考えてもらうのが彼女のお仕事である。一番大きいことは習い事で、毎年この会議で「習い事を継続するかどうか」を彼女は自分で決める。とかく習い事というのは「親が子どもにやらせたい」になりがちだから、「誰がそれを望んでしているのか」をはっきりさせるという明確な意図をもってこの枠組みを設定している。子どもが「やりたい」と思うことに親は出資をしているという構造を死守するためであり、それは「高校」も同じである。「高校は義務教育じゃないから行かなくてもいいし、あなたが望むのであれば全力で応援もするし出資もするよ。」ということをずっと伝えてきているので、彼女も「出資してもらっている」と思っているし、「どれだけ出資してもらっているのか」も分かっている。だから予算書をみながら、「バイトしてるし、お小遣いはもう要らないよ」「学用品も、最近は自分で買ってるし(削って)大丈夫」というような言葉が出てくるんだろうと思う。一方、「髪染めるのは年に3回はしたいかな・・・」ということで、予算アップの項目も結構あるんだけどね。

 この話(予算会議の話)をすると結構ひかれてしまうことが多いのだけど、お金の使い道にその人の意思が表れるものだと思うのだよ。国に「もっと教育に予算を!」と訴えるのも、教育をもっと大事にしていこう、そのためには予算が必要だって「私は」考えているという意思表明であるわけで、家計においてだってそれは同じだろうと思う。もちろん家計のサイズってものがあるので、その意思がそのまま通るわけではないし、ほかの構成員の意思とのバランスだってとっていかないといけない。その際に家計全体が見えなければ、自分の要求が法外なのかどうかとか、なぜ要求が通りにくいのかも見えずに、単に「権力者によって反対されている」ようにしか見えなくなってしまう。だから全体をみながら一緒に考えていく必要があるし、そういう民主的なプロセスを子どもに体験してもらうことにも大きな意味があると私は思っている。

 というちょっと高尚な話になっているけれど、とにかく私は習い事にしてもなんにしても「ちゃんとやれ」と子どもに言いたくなさすぎて、したたかに予防線をはっているという側面が強い。巻き込まれて自分のメンタルヘルスに影響が出てくるのを拒んでいるという意味では、かなり冷たいタイプなんだと思う。ただその線引きは、自分だけではなく相手も守ることが多いので(ムスメさまからしたら、ギャーギャー言われずにすむ)、それでいいんだと私は思っている。とやかく言われることを「愛情」と受け取るタイプとは相性が悪いかもしらんけど。

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