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めぐれ,ゆとり!

 先日のことだった。

 あるショッピングビルの1階でエレベーターを待っていた時のこと。エレベーターが到着してトビラが開くと,双子ちゃん用の大きなベビーカーとお母さんが乗っていた。ベビーカーはエレベーターの扉側に背を向けて乗せられていたので,子どもちゃんたちの姿は見えない。しかしお母さんがベビーカーをエレベーターから降ろそうとした時,「ごーん!!!」というただならぬ音がして,ベビーカーに乗っている(と思われる)子どもちゃんに何ごとかが起こったことが分かった。慌てて「大丈夫ですか!?」と助けに入ろうとするものの,ベビーカーが大きすぎて身動きが取れない。しかもお母さんは「何やってるの!!」とめちゃくちゃ怒っていて,私の声なんて届いていないようだった。(おそらく)ベビーカーからゴロンと落ちた子どもちゃんを(おそらく)お母さんがおもむろに抱き上げてベビーカーに戻し,エレベーターから出ていかれた。ベビーカーには,2歳くらいの子どもちゃんが乗っていて,お母さんを見上げながら泣いていた。痛かったろうなぁと思いながらすれ違ったそのとき。突然お母さんが「何やってるの,もう!!」と怒りながら子どもちゃんのお顔をバン!バン!バン!と強くたたいた。あまりのことに言葉を失って,隣にいたムスメ氏と顔を見合わせるしかなかった。エレベーター内はお通夜状態,「かわいそうやったな・・・」と静かにつぶやく見ず知らずのおばさまの一言にも,返す言葉がなかった。ただただ「お母さんが楽になりますように。」と心の中で念を送った。

 この出来事はムスメ氏にとってもかなりショックだったようで,おとーさんに報告していた。「なんでそんなことするんだろうねぇ・・・私は絶対にそんなことしない。」キリリと言うムスメ氏が眩しく,そうだね,そうだと思うよ,そうだといいね・・・と思いながら,「でもね,時と場合によって,余裕がなくなってそうしちゃうこともあるんだと思う・・・」歯切れ悪くお母さん擁護をするハハ。

 だって何度でも言うケド,泣きやまないムスメ(当時2歳か?)に心底腹を立てて,全力で持ってたおにぎりを壁に投げつけた前科があるからね。あの時の,身体の底の方から湧き上がってくるマグマみたいな怒り,コントロールを失ってだだ漏れするしかなかった爆発的な感情,今でも鮮明に思いだせる。そして冷静になったあとの,激しい後悔に苛まれる地獄のような時間・・・そんなことになるくらいなら,あんなことしなければよかったのにってもちろん思うけれど,もしまた偶然にいろんな状況がマッチして余裕を失ってしまったら,私は「あんなこと」を抑制できるか自信がない。本当に,ない。

 あのお母さんも,双子ちゃんの子育て大変な中で頑張っているんだろうなぁ,と思う。一人の子育てでも正気を失う瞬間があるくらい余裕が失われちゃうんだから,ましてや二人いっぺんにとなったら。子どもちゃんがベビーカーから落ちたことにビックリして,パニックにもなってたかもしれない。「お母さんがちゃんとみてないから」っていう周囲の目を先取りして,「ちゃんと躾してます」アピールのためにバシっ!といっちゃったのかもしれない。周囲にどれだけ人がいても,もしかしたら彼女は「ひとりぼっち」なのかもしれない・・・

 もちろん,どんな理由があっても子どもに暴力をふるってはいけない。この状況において,最も守られるべきはあの子どもちゃんである。

 でも。
 っていうか,だから?

 お母さんそんなことしちゃダメって言うかわりに,できることなら「子どもちゃんちょっとみてるからのんびりしといで~」って言ってあげたい。なんなら掃除機かけたり,洗濯物干したり,夕飯作ったりもしてあげたい。ほんのちょっとの時間でも,何かに追われずに自分の時間を持てたらどれだけ心の余裕が生まれるだろう。そしてその余裕が,「あんなこと」を自分から遠ざけてくれるのだ。心がけとか,ましてや母性なんてものの力なんかじゃない。私はそう思う。

 母性といえばね。

 出産後に初めて授乳をした時,私は全身を駆け抜けるような「ぶわーっ」っていう力に圧倒された。それはなんというか,心理的に解釈しちゃうと「子どもへの愛おしさ」とか「愛情や母性」みたいなものになっちゃうのかもしれないけれど,そういう恣意的な意味づけの前に私は「うわぁ!脳内麻薬出てる,麻薬!!」と思った。科学的にもおそらくホルモンの仕業なんだと思うが,とにかく圧倒的な変化が身体に「キターー!」のである。それはちょっと力不足でうまく言葉にならないんだけど,身体のすみずみがしびれるような,何かが満ちていくような物理的感覚で,それとともに子どもに向かわせるなにがしかに屈服せざるを得ないような巨大な力も感じた。これを母性と呼ぶなら呼んでもいいけれど,でもそれはやっぱり麻薬的作用の何かであって,私の人格とは関わりがほとんどないんじゃないかと思っている。そして授乳期の子育てでこんなに麻薬が出るっていうのは,その時期の子育てが麻薬を必要とするほどに,まぁまぁ過酷なんじゃないかってことである。出産でズタボロの身体を引きずって,細切れ睡眠に耐えながら授乳するって,そりゃほんとに麻薬が必要レベルの労働でしょ。

 でも麻薬だっていつまでもは出ないのに,子育ては大変さの「質」を変えて常にそこにある。麻薬以外のものを,子育ての力にしていかないといけなくなるのだ。それは責任感や義務感だったり,子どもと過ごし積み上げてきた関係性だったり,子どもの可愛さや面白さ,愛おしさだったりするだろう。でもそれらは私をつき動かす強制的な力なんかじゃなくて,余裕をなくすとふっと身を潜めてしまうような,ささやかな力である。だからそれらを必要としたときにいつでも頼りにできるように,お母さん,だけじゃなくって養育の立場にある人みんなが,ゆとりのある環境にいて欲しい。子どもを育てる全ての人に,ゆとり権を主張する権利があるとさえ思う。

 もちろん人によってキャパシティが違うので,何が「ゆとり」になり,どれだけそれが必要なのかはそれぞれに異なってくるだろう。また置かれている状況によってだって,必要とするゆとり量も違う。だからその人が「ゆとりが欲しいです」って言ったらそれはそのまま受け止められるべきだし,外側から「ゆとり度」を査定するなんてナンセンスだ。もっと言えば,ゆとりがないことに気づかずに頑張りすぎている人には,そっと「ゆとりギフト券」が手渡されたっていいくらいだ。数年後にそれは,きっとほかの誰かに手渡されるだろう。

 あの日あの場で私は何もできなかったけれども。
 あのお母さんが近くにいる誰かからゆとりギフト券をもらっていますように。

 私も今までたくさんもらってきたゆとりギフト券を,今度は身近な誰かに手渡していきたい。

 めぐれ,ゆとり!

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