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お気持ちやりとり派,面倒くさい

 「あ、これ、定型あるあるな怒りだな。」

 プリプリと自分が怒っている時、そう自覚することがある。こう言ってしまうと、あたかも自分を「the 定型」と位置付けているかのように誤解されそうだが、私自身もだいぶ能力に凸凹がある人間である。これまでnoteでもさんざん告白してきているが、地図が読めない極度の方向音痴だし、耳で聞いたことを覚えておくことが苦手だし、人の顔が覚えられない。これらも合わせて立派な特性持ちだと言われればその通りで、なんの異論もない。だから定型発達と発達凸凹との間にくっきり線を引いて「私は定型」「私凸凹」って二元的に区別することにあんまり意味を感じてないのだけれども、たまーに対人関係において自分の感じかたやリアクションに「定型(マジョリティ)っぽさ」を感知することがある。まぁとにかく1人の人間の中には、いろんなもんが混在していておかしくないので、そういうもんなんだろう。

 で、どういうことに「定型あるある」を感じるのかというと、たとえば「約束」をめぐって。基本的に約束は守るべきものだけれども、どうしても守れない時には事前に連絡をして謝る。この辺はまぁ、良識ある人々は同じような前提を共有しているんだと思うのだが,その前提をクリアしてもらっていたとしてもプリプリと怒ってしまうような時がある。それがどういう時なのかというと,「全然申し訳なさそうじゃない」とか,「私が大事にされていない」もっと言うと「私が大事に思っているものを大事にしてもらえてない」と私が感じる時。これに尽きる。

 ぶっちゃけ約束を反故にされるような場合,細かい事情やエクスキューズは割とどうでもよくて,「ほんとにごめん!!」感(≒申し訳なさ)がこちらに伝わってきていれば,「全然オッケー♪」と思ってしまう。逆に言えば,どれだけ正当な理由があっても「ほんとにごめん!!」感がまるで感じられなかったら,「・・・許せん。ぷりぷり。」となるわけである。これは結局重要度が時として,

 正当な理由がある人<「ごめん」を伝える(演出する)のがうまい人

 になるということを意味するわけで,「どうなん?(おかしくない?)」と自分でもツッコミどころ満載!と思うのだが,ナチュラルにそこ(ごめん感)を重視してるんだよなぁ・・・そして「ごめん感」がないと「私は大事にされてない!」に直結していってしまう。私があなたのためにわざわざ作った(あけた)時間,私があなたと共有することを楽しみにしていた時間,私があなたのために準備したあれこれ・・・それら(私が大事に思っていること・思ってきたこと)が全てなくなることに対してまず「ごめんね」を期待するから,正当な理由(あなたの事情)は二の次になるんだろうと思う。なんかこんなことを書くと,「わたしが!わたしが!」って言っているみたいでコワイというか,それを通り越してウケてしまうくらい・・・でも,ほんとにそんなことで実際怒っていたりするんである。

 だから,
 「子どもが熱を出してしまったので行けません。ごめんなさい。」という一言しかないのと,「めっちゃ前から行きたかったコンサートのチケットが奇跡的に当たって,すごく申し訳ないんだけどそちらを優先させてもらってもいいですか?せっかくご予定頂いてたのに,お時間作ってもらったのに,本当にごめんなさい!」というメッセージとでは,理由の正当性は前者のほうがあるのに,後者のほうが断然心象がよくなってしまう。なぜってそこには「ごめん」感があふれているし,私が予定していた時間のことを「考慮にいれて」くれていることを感じてしまうからである。

 でももしかしたら前者の人もものすごく申し訳なさを感じていたかもしれないし,後者の人の申し訳なさは「うわべ」だけのものかもしれない。でも正直,ここが肝なのだが,「本心はどうか」ということをあまり重視しないコミュニケーションを多くの人はとりがちなのである。そこに自分への配慮が表現されていればそれでオッケーであって,「ほんとうは」どうなのかということは不問に付す。一方自分への配慮がそこに表現されていなければ,「ほんとうは」どうであろうと,許しがたく感じてしまう。そういう型みたいなものを,すでに実装してしまっているような気がする。

 だけどその「型」みたいなものがまるで違う人がいる,ということもあろうかと思う。お気持ちよりも事実重視の文化圏の人にとっては,「ごめん感」なんていう型は茶番のように思えるかもしれない。そういった人々にとってのコミュニケーションの「型」は,別様に存在しているのだろうと思う。また「ごめん」感や自分の気持ちを瞬時に表現することがニガテだ,っていう人もいるだろう。そういう人たちとは「型」を共有していても,タイミングが合わなかったり,型が役に立たなかったりする。

 こんなふうに「単に,違うだけなんだ」ってこともあるのに,「私は大事にされてない」と悪意に受け取ってしまうことが結構ある。「なんか,失礼!」ってプリプリ怒っている時には,そのことをなるべく思い出したいと思うのだ。お互いにとって,いいこと一つもないもの。

 それにしてもこれ,権力関係においては完全に「忖度」の構造だよな,と思う。パワーのある人から「エクスキューズはどうでもいいから,お気持ちを差し出せ!」的振る舞いをされたら鬱陶しいことこの上ないし,場合によってはパワハラ認定ものだ。でもフラットな関係(夫婦だったり,お友だちだったり)においては,「お気持ち」をやり取りする型に則っているほうが「心地よい」ものだし,そのこと自体は大事にされてしかるべきだ。違う文化圏の方に外側からいくら「そんなの茶番だ!」って言われたとしても,まず真っ先にあなた(相手)のことを考えていますよっていうメッセージを言葉に乗せたいと願い,それを受け取ることができれば嬉しいという心性は,いい・悪いという価値基準とは別に「もうすでにそこにあって,共有されている」。そういう人たちもいて,そうじゃない人たちもいて,この世界は成り立っている。

 だからもし「お気持ちやりとり派とうまくやっていけない」方で無用なトラブルを避けたい人は,今回の事態の正当性を主張するよりも,「せっかく用意してくれていた時間なのにごめんね。」の一言を真っ先に言っちゃったほうが無難である。お気持ちやりとり派が求めているのは,「この事態を客観的に眺めて,どちらにより否があるか。」を判断することなんかじゃなくって,「わたし」が楽しみに待っていた時間,「わたし」があえてあなたのために作った時間,「わたし」が大事にしていた約束,そのことへわずかでも「思いを馳せて欲しい」ということ,ただそれだけなのである。だから「ごめんね」感を要求するのも,「この事態に関して,あなたに否がある」ことを明確にするためではなく,「私をがっかりさせたこと」への申し訳ない気持ちの表明として受け取りたいためだし,まぁ擁するに「一緒に楽しみにしていたことが実現しなかったことを,一緒に残念がって欲しい」ということなんだな。ゆえに「ごめんね」の意味は,一般的な意味での「謝罪」ではなくてむしろ,残念だ,に近いんじゃないだろうか。

 もちろん「私は悪くなんかないのに,ごめんねと言うのは魂を売る行為だ」と思う派の人々がいらっしゃるのも知っている。だから,「とにかく謝っちゃえ」とは簡単に言えない。でももし長期的に見てトラブルを避けたほうが得だな,と思えるようであれば,相手の型に乗ってしまうのも一つのライフハックだとは思う。それができりゃ苦労はしないよ,という話なのだろうが。でも実際私もお気持ちやりとり派じゃない方々とお話する時は,論理的な整合性や事実を慎重に取り扱うことを心掛けていて,うまくいく時もあれば,失敗することもある。お互いがそれぞれの型の特徴をふまえて,なんとかやりくりしていくしか今のところない。

 いやぁしかし,書いてみるとお気持ちやりとり派,面倒くさい!自分のことながら,面倒くさいヤツだ。でも,明らかにそれが私にとって大事なんだなぁ・・・そう思っても,面倒くさいもんだ。

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