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「子どもとゲーム」大人の役割

「ちょっと~!殴らんといてよ~。」

 ムっとしながら私が子どもたちに言っているのは、リアルの世界ではなくてゲームの世界でのこと。マインクラフト(以下マイクラ)なんていう平和なゲームを一緒にしていても、もめる時はもめる。楽しくてテンションがあがり、ちょっとおふざけでわざとほかのプレイヤーを「バシバシ!」と殴ってダメージを与えて「あはは!」と悪びれない、なんてことは子どもたちにはしょっちゅうあって、その都度「やめて」と言う。ゲームの中のことだし、別に本当に痛いわけでもないし、ノリが悪いなぁ、これだから大人とゲームしたって面白くないんだよ・・・と思われようがなんだろうが、キャラクターが殴られるのは(私は)マジで嫌だし、たとえゲームの中でも「人が嫌だと言っていることはしない」というリアル社会の(超基本的・最低限の)ルールは反故にできぬ。・・・という強い意思を持って、「やめて。」「いいじゃん。」「よくない。嫌だから。」「いつも友だちとそうしてるよ。」「私は嫌なの。」としつこく主張をする。そこで事態がエスカレートしなければ「ただただ、私は嫌だと表明する」だけで、別にことの善悪を裁いたりはしない。そんなことをしなくても、子どもたちは「いいじゃん。」と言いながらも、「嫌だ」と言っている行為をやめてくれる。

 大体子どもたちがゲームの世界でもめるのは、「わざと攻撃した・してない」「自分の持ち物を盗った・盗ってない」「仲間ハズレにした・してない」なんていう、公園で遊んでても起こるようなことだったりするということに、一緒にゲームをプレイしてみて初めて気付いた。リアルだろうとゲームだろうとそこに「社会(コミュニティ)」が立ち上がるわけで、それが人と人との営みである以上、「もめごと」に類型があってそれが共通するっていうのは考えてみれば当然のことである。だから「鬼ごっこを楽しくするために必要なルールやマナー」と同様に、それぞれのゲームにも「安心して、みんなが楽しく参加できるための基本ルールやマナー」が必要になってくる。でもゲームの世界のことが分からないと、その世界では何がもめごとの誘因になるのかということさえ把握できない。そしてそれができなければルールの設定なんてできないし、あるいはかろうじてできたとしてもそのルールが非現実的なものになる可能性は高い。さらにお互いがルールを守って気持ちよくプレイするためにできる最も効果的な方法は、ゲーム自体の設定を変更して環境調整をしてしまうという手なのだが、それこそそのゲームについて詳しく知らないと不可能である。たとえばマインクラフトで「ほかのプレイヤーを殴る(ダメージを与える)」ことが子どもたち同士の間でももめごとの発端になった時があり、その時に子どもたちと話し合って「わざとダメージを与えない」というルールを設定したが、子どもたちのほうから「相手へのダメージをオフにしておいたらダメージをくらわないから、設定を変えよう」と提案してくれた。そうやってゲームの設定そのものを変更することで解決できることはおそらくたくさんあり、とりわけまだ(社会性の面で)発達途上にいる子どもたちにとって非常に重要で、かつ子どもたちの助けになるのだろうと思う。しかし「鬼ごっこ」は大人たちが先人の知恵を使って子どもたちが安心・安全に遊ぶ環境を整えたり、もめごとの仲裁をしたりすることができるが、ゲームは「大人が未知・無知」という状態に置かれてしまって後手にまわらざるを得ない。「子どものほうがよく知っている」世界があり、その世界の振る舞い方を大人が教えることができないという、親子関係(大人ー子ども関係)の超新しい状況がもうすでに生れてしまっているのである。それはなにもゲームに限らず、あらゆるICTについて言えることだと私は考えている。

 大変な時代である。

 でも大人が子どものプレイしているゲームの内容を熟知して、先手で環境調整していくなんてほぼ不可能に近い。子ども以上にゲームをやりこむ時間も体力もなければ、ゲームに関心を向けることすら難しい人たちだっている。私も今でこそ「ゲームって楽しいなぁ。」と純粋に楽しんでいるけれども、もともとは全然ゲームに興味を持っていなかった。ここ1年くらいのやりこみ前のゲーム歴は、ファミコン黎明期の「スーパーマリオブラザーズ」とか「ドラゴンクエスト」くらいで終わっているのですよ、ほんとですよ。我が子も「ゲーム買って」とねだってこなかったので(本当は欲しかったらしいけれど)、ゲームが好きな子どもたちに出会うまでその世界について知る機会がなかったのだ。そして実際に一緒にプレイしてみて、その世界の一端を知り、「これは大人がもっと果たすべき責任がある」ということにようやく気付いたのである。

 だけど何度も言うけれど、この場合の「大人」は「親」であることが難しい。ぶっちゃけ、それぞれの親は「そんなヒマねーよ!」なのだ。だから最近はゲームの家庭教師サービスなども提供され始めているし(たとえばこれ)、メンターのような形で「その世界に詳しい人、その世界で一緒に遊んでくれる人」との出会いを仲介するようなサービス(たとえばこれ)もあったりする。子どもたちと一緒に外遊びをしてくれる大学生たちのサークル活動があるが、これと同じようにゲームで遊んでくれるお兄さん、お姉さんたちがいてくれるといいなとも思う。ゲームを子どもたちの「健全な遊び」から除外しないで、子どもたちが大好きな世界として同じ様に扱い、その世界で「先人の知恵」を持っている人たちが子どもたちの遊びを見守ってくれたらいいのになぁ、と。でももっと望みたいことは、ゲーム自体にそういう「大人の見守り」的機能が実装されて、子どもたちが安心・安全にゲームを楽しむためのルール設定を促したり、このゲームではお友だち同士でこんなトラブルが起こりやすいよ、こういうことに気を付けようね、というようなチュートリアルがあったり、設定したルール違反があった時にプレイが中断されたりというような、子どものための仕様がデザインされていって欲しい。

 ・・・つまるところ、「ゲームはなるべくしないほうがいいもの」として制限をかけるしか打つ手がない、という状況を放置するんじゃなくて、「それは当たり前にあるもの」「子どもたちが魅力を感じているもの」として、主体的に楽しむ環境を大人(社会)と子どもとで作っていけたらいいんだと思う。

 そんなことをモヤモヤと思っている中で、子どもたちが楽しむゲームやICTと大人はどう向き合っていくか、ということにポジティブな方向性を示してくれている本との出会いがあった。児童精神科医吉川徹先生の「ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち―子どもが社会から孤立しないために」である。タイトルだけをみると、ゲーム・ネットの世界から「離れられない」というネガティブな側面を照らし出しているようにみえるのだけれども、この本ではゲームやネットの危険性を強調しているわけではない。むしろ著者の吉川先生自身が長い間ゲームを愛好しておられる方で、その立場からゲームの魅力とそれゆえの離れがたさを熟知されておられるので、子どもたちが楽しむゲームの世界はどんなものなのか、どういう種類のゲームがあって、何が魅力なのか、そのために起きてくる問題について、分かりやすく説明して下さるところから始まっている。ゲームのことをよく知らない親にとっては、どんなゲームも十把ひとからげに「ゲーム」でしかないが、もちろん実際のゲームは多様である。いろんなゲームがあって、それぞれに魅力は違うという、ゲームに対する解像度をあげることで、目の前の子どもたち(我が子)が何に魅力を感じているのかを知り、彼らの世界に近づくことができるように思う。そこを出発点にして、子どもたちがそれらとうまくつきあっていけるためのリテラシーを身に着けるサポートをする義務が大人にはあるのだということを、この本からも再認識させられた。著者の吉川先生の、子どもたちとの(ゲームやネットに関する)「約束」に関する見解がとても素敵だなと思ったので、一部引用させて頂きたい。

「大人がネットやゲームの魅力をよく知っている」と子どもに感じてもらうこと、そしてその魅力を十分に知っている大人がそれでもなお「約束」が必要で、「約束」を守って欲しいと思っていることを、子どもに伝えていきたいところです。
「ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち」:吉川徹、合同出版、P126

 子どもたちが魅力を感じているものを、一方的にジャッジをして制限をするのではなく、「それって面白いし最高だよね!」と子どもの嗜好や選択を真っ先に尊重できること。その上で「上手に使っていくためには約束が必要なんだ。だから約束を守って欲しい。」という大人の願いを伝えて、信頼関係を築こうとする姿勢を見せること。とても難しいと感じてしまうけれども、そうありたい、と思う。

 そして本書には子どもとの「約束」の仕方について、具体的にどうしたらいいのかも提示されているので、子どもが約束を守らないといった悩みを抱えている親ごさんの参考になるのではないかと思う。「ネットやゲームについての約束は子どもには守れない」を前提にすべき、というところから出発するので、「えっ!」と目から鱗だと思いマス。でも「なるほど!」という見解がたくさん示されているので、ぜひ悩める多くの大人に手に取ってみてもらいたい。

 ところでこれを書いている今日たまたま書店で手に取った、台湾のデジタル大臣オードリー・タンさんの「自由への手紙」の冒頭には、タンさんがスマホを使わないで二つ折りの電話を使っている(マジか!)理由が書かれていた。

私は「アンチ・ソーシャルメディア」を標榜していますが、指だけで簡単に操作できないように自分で設定した電話を使うことで、SNSに過剰に注意を払わずにすんでいます。テクノロジーとはあくまで、人間のお手伝いをしてくれるもの。テクノロジーの奴隷になるのはおかしな話です。
「自由への手紙」:オードリー・タン、講談社、P5

 超絶耳の痛い話であるが、子どもも大人もみんな、ICTの自律的な使い手になるために工夫をし、学び合い、励まし合っていくしかないんだよな、と撃沈しながら思う週末なり。

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