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インドの徹底した菜食を維持させているのは「不殺生」よりも「階級意識」

西インドを訪れ、複数のジャイナ教家庭で2週間を過ごした。ジャイナ教は徹底した不殺生を貫く宗教で、食の禁止事項が多い。しかし窮屈というばかりでなく生き延びるための知恵が集約されていて、なかなか科学的だ。

はじめはよくできているなと感心することばかりだった。しかし、徐々に素晴らしいだけでない、どろっとした部分も見えてきて、この世の現実に呆然とした。
カースト制との絡みから綴りたい。

カースト制とは

ヒンドゥー教における身分制度のこと。生まれを意味する「ヴァルナ」と職業集団を意味する「ジャーティー」からなる。私たち日本人が社会科の授業で習うのはヴァルナの方で、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分とダリット(不可触民)に分けられる。

出典:Yahoo! ニュース。これはヴァルナの方。

これがカーストだと思っていたのだが、現地に行ってみると、もっと広い意味で「社会グループ/コミュニティ」のような意味で使われることが多いようだった。地理的に近いエリアに住む、宗教や風習を同じくする人々の集団のことを「私たちのカースト」と呼んでいて、どうもこれがジャーティーにあたるようだ。
その意味ではヒンドゥー教以外の人々もカーストに属している。ジャイナ教の家族は「私のカーストでは、こういうルールになっていて…」などというふうにこの語を使っていた。また、ヴァルナの方も、元々はヒンドゥー教徒のものだったが、今はインドに生きる他教徒の人々もどこかに属しているようだ。どうも複雑だ。

ちなみにジャイナ教の人々の76%は、バラモン〜クシャトリアのGeneral Category(上位カースト)だと自認しており、その割合は他教徒に比べて圧倒的に多い。彼らの多くはお金持ちで社会的地位が高いので、ざっくりバラモン相当くらいのイメージだ。

Pew Research Centerの図より作成

身分に応じた「ふさわしい食」がある

さて、そのカースト制。職業、食べるもの、服装などすべてにおいて各身分ごとにふさわしいものがあるとされる(ただし服装については、今は変わってきているそうで私の目にはわからなかった)。大原則のルールとして、purity and inpurity (浄・不浄)の概念がある。

職業に関しては、最高位のバラモンは宗教行事を司ったり、教師、マネジメント職などのいわゆる手を汚さない仕事につき、低位のシュードラは掃除、革仕事、肉屋、など、汚れや動物の死に触れる仕事につく。

食に関しては、菜食は浄性が高く高位カーストのもの、肉食や飲酒は不浄であり低位カーストと結びつけて考えられる。菜食者の割合は、バラモンで特に高い。聖職に関わるものは浄でなければいけないということらしい。

ちなみに、低位カーストの者が自分より上位のカーストの食や行動をまねることで上位に移行しようとする現象をupward mobilityといい、シュードラが菜食を指向するなどの行動があるそうだ。

不浄が移るのを防ぐための「ソーシャルディスタンス」

ここまではなんとなくわかるが、これが関わってよい人の規制にまで及ぶというのが、私には理解を要した。不浄は移るというのだ。
浄というのは、所詮不浄を排しただけの状態であるから、不浄に触れれば浄性は損なわれる。なので低位カーストの不浄さ(=穢れ)が移らないよう、高位カーストの者は低位カーストの者からさまざまな次元で「ソーシャルディスタンス」をとる。社会システムのあちこちで、互いに接しないように設計されているのだ。

食に関して言えば、低位カーストの者から高位カーストの者が飲食物を受け取るのはよくないとされている。特に、水で煮炊きされたもの(煮物やスープ)はNGで、油で調理されたもの(揚げ物や炒め物)は、多少低位の者からでも許されている。
外食はどうなのかと言うと、レストランの厨房みなバラモンというのはかなり無理があるので、現代社会の現実に合わせて寛容になってきているようだ。もちろん地域や人によって差はある。同じジャイナ教徒でも、グジャラート州(保守的な地域)の家庭は「ストリートフードは誰が作っているかわからないから食べない。ムスリムが作っているかもしれない」と言っていた一方、ラジャスタン州(割とオープンな地域)では「気にしないよ〜」と言っていた。

また、使う食器もわける。滞在先の家庭では、メイドとして雇っている女性には別の食器を与え、食事をとる時も家族と離れて台所の床で食べさせていた。

住み込みなどのメイドは、やや例外的になる。それでも掃除や洗濯をすることが多く、料理全てを任せることはない。

生理中の女性は台所に入れない、食卓につけない

さらにこの「不浄な存在に接すると穢れが移る」という考え方は、同じカースト内であっても、さらにいうと家族内であっても、一時的に適用されることがある。その例が、生理中の女性に対する扱いだ。
ヒンドゥー教でもジャイナ教でも、生理中の女性は不浄な存在とされ、寺に行けない。家庭に入ってみて分かったのだが、実はそれだけでなく、台所に入ってはいけない・共有の食器や食べ物に触れてはいけない・同じテーブルについてはいけない・他者に触ってはいけないといった数々の非接触ルールがあるのだ。これは家庭によっても遵守度合が大いに異なるが、私が訪れたグジャラート州の家庭は、かなり厳格な一家だった。ちょうど一人生理中の女性がいたのだが、チャパティ一つ食べるにも、「そこのチャパティをこの皿にのせて、お願い」と他の人に頼んで取ってもらい、台所の床で食べていた。同じカーストの人間であっても、不浄な期間は非接触ルールが適用されるのだ。

右の壁際の女性。もう食事は終えているが、距離をとって食卓にはつかずに話している。

なぜ浄の概念で人が分離されるのか

こういった考え方に慣れていない私は、はじめはいじめかバイキンタッチかとものすごく居心地が悪く感じたのだが、歴史的には社会的に重要な役割を果たす高位カーストの人間を感染症等から守る仕組みであると知り、一応は腑に落ちた。
汚いものや死体に触れた低位カーストの者は、感染症の元となる菌を保有しているかもしれず、重要な地位につくバラモンなどがそれに感染するのは、社会的に支障が大きい。大事な人に感染させないというのは、なんとなく新型コロナに通ずる考えにも感じ、よくできているなと感心する。一方で、日常的に意識させられることで、強固な階級意識と超えられない高い壁が作り出されていることに呆然とする。

余談だが、生理中の女性に関しては、犬のようにぽいっと食べ物を与えられて床で食べている様子が、私は見ていられないほどつらかったのだが、「どう思うの?」と聞いてみたところ、満面の笑みで返事が返ってきた。
「月に一度、料理をしなくてよくて、何もせず食べ物をもらえるんだから最高よ!夫は気遣って『何か食べたいものある?』と聞いてくれるし、子供たちは毎月あるその数日間のおかげで料理できるようになるしね」。
差別だの人権侵害だのは、外の人間が勝手にいうものではないのだと思い知った。

浄性の高い食を選ぶこと=高い身分の証

話が広がってしまった。一時的な不浄の話を置いておくと、インド社会では、食の選択が身分を体現すると言ってよい。ジャイナ教の人たちと一緒に過ごしていると、しばしばそういう言動が垣間見えてどきっとする。ムスリムと友達になるのはいいけれど家には入れたくないと言ったり、肉を食べる人間のことを痛烈に見下したり。私が「日本の朝食ってどんな感じ?」と聞かれて「ご飯に味噌汁、焼き魚。味噌汁の出汁は魚かな」とか答えたら、「下で誰か呼んでいるみたいだよ」とやんわり追い出された。ある調査によると、ノンベジ(肉や魚を含む食)を食べる友人の家では食事したくないと答えたジャイナ教徒は84%。ノンベジを提供するレストランで食べることについては、91%にも上る。もちろん、菜食が提供されるという前提でだ。
表面的には見えないけれど、意識的・無意識的に不浄を徹底排除し、そういう人間をツンと突き放す準備がいつでもあるかのようだ。

これは紛れもなく、単なる「区別」ではなく「階級意識」だ。
だいたい菜食の方が、制約が多い。だからそれを守っていることは、ある種尊敬の対象だ。そこにきて、ジャイナ教。彼らの食事は、通常の菜食に輪をかけて制約が多い。禁欲的とも言われるそのルールを頑なに守ることは、単に「宗教的に是とされているから」というだけでなく、それを守ることによって他との差別化、階級意識を守っているのではないだろうか。そう思えて仕方なかった。
そもそも、不殺生を重視するだけであれば、食の厳しさに対してその生活は矛盾だらけだ。日没後食事を摂らないのに、ガソリンを使って車に乗り友人宅に出かけていく。じゃがいもを掘ると殺生が多いからと食べないのに、ジャイナ教徒が多く就くダイヤモンド産業は、地中深くまで掘削する。時代の中で生活が変化することは必然だけれど、その大きな矛盾にもやもやしていた。身分の誇示と考えれば、筋が通る気がする。

13億人の人口を抱え、20以上の準公用語を有するインド。多様性の国とも言われるインド。食が異文化の人々を繋いでいると期待したかったが、逆に食が分断を浮き立たせているという現実に向き合わざるを得なくなった。

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