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(95)街へ行く。4 東京国立近代美術館

雨の降る前日正午頃に家を出ると、強い日差しだが青に透明感があって秋の空に白い雲が浮かんでいた。ピーター・ドイグ展を観に竹橋へと向かった。

ピーター・ドイグ展は6月の緊急事態解除後に一度来ていたが、あの時は世の中もまだピリピリした雰囲気で自分自身も緊張していたが、この日はリラックスして絵を観ることができた。

不思議な感覚になる絵で初期の作品はとくに、観ていると不安な気持ちを呼び起こすものが多いと感じる。映画の上映会のためのポスターもラフなタッチで描かれていて、何とも味わい深い。絵の世界に入れそうで入り方がわからない、という気持ちを抱くのは何故なんだろう? 何年か時間を経過してまた観たらどう感じるのだろうと気になる絵なのだった。


企画展の後は常設展をじっくり観た。東京国立近代美術館の常設展は見応えがある。時間のない時は観れないが、残暑が厳しいこともあり他は廻らないことにしたのでゆっくり楽しんだ。四階から下へ降りて行くが、まずは眺めのよい部屋からお濠を眺めて目を休める。若い頃は石垣なんて見ても何とも思わなかったが、石垣とはとてつもない匠の技術であって美しいなあ、凄いなあとつくづくと眺めた。

しばらくぶりの常設展示は初めて観る作品も多く、とても面白い。日本人が描く洋画の初期作品をまわり日本画の花鳥風月の色彩豊かな絵を観たところで、かねてから疑問に思っていたことが気になりだし、近くにいた学芸員の方へ訊いてみようと思いつく。

日本における初期の洋画を初めて観たときに私が驚いたのは、その画面の暗さで、この日もまた暗い画面の絵画をいくつも観た。戦時期の作品も多数展示されていたが、戦争にまつわる作品が重苦しく悲惨で残酷さや痛み悲しみを感じさせるのに対して、空気の重さは感じるけれど、どちらかと言えばただ画面が暗い、光がない、という印象を受ける。

修復されて色が鮮やかになった作品もあったので、画面が暗いのは画材のせいで発色が良くなかったり、退色したのだろうかと思い、そう質問した。学芸員の方はちょっと驚かれた様子だったが親切に答えてくださり、初期は特に日本で手に入る材料が西洋と違ったことや次第に同じ材料が入手できるようになったこと、だが鮮やかな色の絵の具もあったから作家の考えでそのような画面とも考えられる、という事だった。なるほどなー、と伺ってお仕事の邪魔かなと切り上げた。もうすこし訊いてみたらよかったな。

常設も撮影可の作品は沢山あったが音が出るのでやはり遠慮する。秋海棠と四十雀が可愛らしくて唯一撮った日本画。庭の秋海棠はこんなに花をつけないし、花の見方がずいぶん私と違うなあと。やっぱり絵に限らずアートを観るのは面白い。黙々と3時間余り作品を観て歩いてどんどん深く入って行ってたようで、感覚と思考が融け合っている時間に感じたことを書こうと思ってもうまく思い出せない。自分の分身を置いてきてしまったかのようで、ああいう世界と行き来して言葉に置き換える事が出来る人は凄いなと思う。言葉に置き換えるのが作家でモノに置き換えるのがアーティストなのだろうな。



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