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落ち込む出来事で気付いたこと

昨日のこと。
信頼している人との関係がギクシャクしてしまった。
原因は、私が思い違いをしていたこと。

誤って理解していたことで相手に迷惑をかけてしまったので、理解に間違いがないか確認不足だったことを、自分の非として深く反省し落ち込んでいる。

その一連のやり取りの中で、とても辛かったことがある。
1つは、なぜ思い違いをしてしまったのか、その理由についてどんなに言葉を尽くして説明しても、「そんなことは有り得ない、理解できない。」と跳ね除けられてしまったこと。
もう1つは、「そんな間違いをする人は他に誰もいない。他の人は絶対に間違えない。」と、他の人との比較の中で非難を受けてしまったこと。

特に後者の言葉が、私にはとても辛く感じた。
間違いを指摘された時点で、「あぁ相手を不快にさせるようなことをしてしまった…どうしてそんな間違いをしてしまったんだろう、本当に馬鹿だな…。」と自分を責めてひどく落ち込んでしまったところに、
「他の人は絶対に間違えることはない。そんな人はいない。」
と言われ、弱っているところに一撃を加えられるようなダメージがあった。

私と相手との間に起こったことなのに、他の人との比較で非難されたことが、何よりも悲しかった。

私が相手だったらどうするだろうか。
私はとにかく、その人の言葉で話を聴きたい。どう考えてどんな思いがあって、そうしたのか。良い悪いの物差しで測るのではなくて、ただただ、その人の考えや思いをそのまま知りたい。
私のやり方や伝え方に分かりづらい点があったかもしれないし、自分では間違いようのない当たり前のことが、他の誰かには難しいことかもしれない。
お互いに、曇りないありのままを伝え合って、ズレたりブレたりしない共通の理解を確認できたら、それでよい。
正しい!間違っている!を追求することに時間を費やしても、何もいいことない。

言葉は刃にもなる。
「信じられない!考えられない!」と自分の正しさを基準に相手を責め立てれば、その人は萎縮して言葉を飲み込んでしまうかもしれない。
自分の正しさを相手に納得させることよりも、相手がその人の言葉で偽りない思いを吐露してくれる方が、私は嬉しい。

そして、他の誰かとの比較の上に非難すること。私はできない。
その人は、他の誰でもない。すべての命あるものは、他の誰でも何でもない。
他と比較している時点で、相手を見ていない。100%向き合っていない。
そう感じる。
(と書いていて、時々、夫のことを「誰々の旦那さんは、~してくれるみたいだよ。いいなぁ。」なんてことを言っている…と気付いた!
ごめんよオット!反省。)

以前の私ならば、こんな出来事があれば、血の気が引くほど落ち込んで、
とことん自分を責め立て、自分の落ち度を後悔し続けているだろう。

けれど、ドリアンパン学校とのご縁をいただき、亀の歩みながら学んできている私は違う。
自分の身を削って、自分の内側をすり減らして、他の誰かのために全力を尽くすことを、しない。

全力で自分の「悦」を守る。

“「ストレスに強い」とは、落ち込まないことではありません。
大自然の循環の中で生きていれば、つまづくことがあって、それによって落ち込むのは当然。
ストレスに強いとは落ち込まないことではなく、落ち込んでも、翌日以降に数日で浮上してくること。それが本当のストレスに強いということです。”

パン学校で東洋思想/医学を教えてくださっている、志庵鍼灸院山口先生からの学びだ。

10代の頃から、もっと強くなりたい、もっともっと…と、何があっても強くあろうとしてきた私は、強くあろうとすることをやめて初めて、本当の強さとは何かに気付き、自分にその強さが生まれ始めているような気がする。

今回の出来事があって、この文章を書けた。だから、とても感謝している。
ありがとうございます。

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