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境界線の話

小さな部屋にばかり居ると忘れてしまいがちだけど、今、外はとても気持ちの良い季節だ。秋晴れの爽やかな夏の名残りを感じさせる日差しと、秋の匂いを運んでくれる風。体と心が洗われていくよう。

私は今、家の庭の大きなタープの日陰の下でこれを書いている。時折少し強めに吹く秋風を頬に受けながら、目をつむると色んな音が聴こえてくる。ふと、子供の頃の感覚を思い出す。

小学生の頃、福島の沿岸部の小さな町の中の、さらに山のふもとの学校に通っていた私は、自然と触れ合う機会が多くあった。虫は4つの頃から苦手だったので昆虫類には怯えていたけれど、それでもあの広い空と一面の田んぼ、大らかな太平洋の瑞々しさは、子供の私の感性に多くの影響を与えてくれた。

お気に入りの場所は、下校途中にある小さな橋の下。帰る方向が同じ同級生の香織ちゃんとひっそり潜り込んでは、その秘密基地感と背徳感に高揚した。
昔から背の低かった私は、当時小学校4年生ぐらいですでに160センチあった香織ちゃんに手を貸されて(というよりもはや抱っこしてもらいながら)、ようやく橋の下へ行くことができた。二人でこっそり合言葉を決めて、ここに来るときはこれを言うことね、とケラケラお喋りし合ったものだった。
あの川面の陽の当ってきらきらするのを、今でもよく覚えている。どうしようもなく煌めいていて、止むことない川の流れがその表情を毎秒ごとに変えてくれ、ずっと見ていられる光景だった。

目の中に永遠に住んでくれるこういった光景の多くを、私は子供時代に見つけることができた。中学生になって町の学校へ進学した後や、隣町の高校へ行った後も、息詰まるとこの山のふもとの桃源郷に戻ってきて、宝物のような景色を一つ一つ確認しては自分を癒していた。

東京の大学に進学して、航空業界に就職して、その後も色んな場所を転々とする忙しない生活を送るようになってから、次第に私の中での”宝物”の光景は、目に映らなくなっていった。それは自分でも気づかないうちに忘れてしまうようで、最後にはそんな光景があったことさえ思い出すことがなくなっていた。

目の前の人生に必死だったからかもしれない。川面のきらめきや空から注ぐ天使の梯子を「なんて素敵なんだ」と思い出す余裕が、なかったからかもしれない。きっと忙しい現代人の中にそうゆう人は多いだろうし、自分だけが特別なわけじゃない。でも、やっぱり少しだけ、怖くなる。

今この岩瀬の秋風を受けながら感じるのは、これまで自分が見過ごしてきた数々の“存在”のこと。風にそよぐ木々の葉音に、秋らしい鳥の鳴き声、日差しを思い切り浴びる緑の葉っぱと、小さな虫たちの気配。なぜだか分からないけど、そうゆうものを感じてる時にはいつも「ありがとう」が浮かぶ。「ありがとう、わたしも生きているよ」「ありがとう、そこに居てくれて」「ありがとう、元気でいてくれて」。

もしかするとこれが”感謝”という感情の一番純粋な部分なのかもしれない。そしてこうゆうものを受け取るために、私は生きているのかもしれない。目をつむると、もはや自分と自然の境界線が分からなくなる。表皮が溶け出していくように、じんわりと外と中が交わりはじめ、次第に私が自然なのか、自然が私なのかが分からなくなる。
この感覚を「主客未分」というのだと知ったのは、つい最近のこと。
「ありがとう」という感覚を、たがら私は忘れずにいたいと思う。目の前の忙しさに手一杯になった時、きっと自分を正しいところに戻してくれる言葉だから。

2021年10月10日
晴天の秋の空の下で。
Misato

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