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雨あがりの夕ぐれ時         ~「庭の話し」を鑑賞して~

言葉とは。その人の言葉はわたしには呪縛のように、わたしはすっかりその言葉に掴まってしまった。突然の言葉に射抜かれてしまった。それは雷のような激しさではなく、願いにも似たような温かさがあった。わたしは直ぐにスケジュールを確認して空いている時間に予約を入れた。入れてしまった。
やった!週末に出かける口実ができた。

三月の雨なのに冷たい。その古い建物はかつては学校だったようだ。とても素敵な風情、わたしは「好きだな」と感じた。外見は洋館のようで内部は木造。廊下も木の板というより、木がはめ込まれているような造りで、歩くと音がする。これでは嘘がつけないな。
そして、その場はかつての学校の講堂のよう。天井が高く舞台があり窓が大きい。所々洋風の装飾があり、伝統も舞踏場のようである。わたしは最初の観客だった。好きなところに座れる。わたしはその場に馴染みたいと思った。

開演の10分ぐらい前にアナウンスがある。そのころからすでにふたりの演者が場に現れていた。そろり・そろりと歩かれている。スピードを変えたり、あらぬ方へ視線を向けている。それはすでに始まろうとしていた。

もう一人の演者が現れる。それは確実に始まりの時。それぞれにながめたり見つめたりしながら、ご自身の歩みをしている。
ひとりめの人の演者が場を縦断するように歩む…というか進むというか…縦断していく。そこにわたしは時系列があるように感じた。
あるエクササイズを思い出す。参加者みんなが縦に長い線の上をそれぞれに歩いていく、その時に自分の来し方行く末をその線の上で表現しながら歩いていく、というエクササイズである。わたしもその参加者の一人であったが、なにか自身の人生を簡易ながら端的に表現し、肯定的に捉えることができたような体験であった。
その演者も時間をかけて縦断していく…何かを見つめたり、何かに触れたりしながら…ふりかえり後悔しながら過ぎてゆく…とても表情が豊か。

ひとりの演者が場を縦断して過ぎていくと、次の演者が場を横断しようとしている。しかし、途中で一カ所でくるくると回ったり、そこからあまり移動しない。この様子は有る社会現象をわたしの中に想起した。それもまた人生。そのような状態を人に強いる社会が浮かび上がる。そこを生きぬくにもまたとてつもないエネルギーが必要である。

その演者が場の端へ進んでいくと、ひとりめとふたりめが場を進む間、その場の周りをずっと彼女なりのペースで移動していた、その彼女が場の中へ入ろうとする。ずーっと場の周りを柱に寄り添いながら、窓の外を見ながら、またひとりめの演者と視線をかわし、ふたりめの演者を見つめたりしながら、ずーっと周りを歩んでいた彼女は、場の入ったあたりからあまり中央へとは進まなかった。社会的にマージナライズに置かれた存在、わたしにはそのように視えた。場の中へなかなか入れない、入っても自由に動けない。そのような不自由さを感じた。

やがてひとりふたりさんにんと、場の中で交わって…しかしそれぞれのある一定の距離感を保ちながら、磁石がマイナスとマイナスが弾くように、決してつながらない。でもだからこそ、そこに引力のようなものがあるような。それは視線であったり、無視であったり、気配であったり、わざとであったり。ノンバーバルの豊かさよ。

彼女はマージナライズな存在でありながら、どこか全体に影響を及ぼしてもいる存在で…と視えるのはわたしだけかな?わたしの見方のかたよりか?

おもしろい。

演者同士、響き合い
場と観客と演者、響き合い

沈黙の有弁なこと。

おもしろい。でも観客にスゴイ集中力を強いている。わたしは途中から頭がぼーっとして、眠くて仕方ない。一時間ほど前の食事のせいか?いや。この場に流れる気がそうさせている気がする。
言葉ではなく身体からあふれる豊かな自由。即興の緩やかさ。
視る者の捉える自由。
その自由を尊重する場が醸し出す気がこの場を満たしていく。

ここでのルールは観客は観る場所を自由に移動できるし、この場への出入りも自由。おまけに観客のための休憩室まで用意されていた。観客がわたしのこのような状態になることを想定されていたのだろうか?

やがてまたさんにん三様の歩みが始まる。彼女はやはりマージナライズにあゆみをすすめる。やがて彼女は窓を開けて外を眺めて空を見上げる。そして彼らに手招きをする。この空はどう?

おもしろかった。

わたしはその呪縛のような言葉のおかげでこの場に出逢うことができた。

K氏に感謝。

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