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ラディカル・フィールドワーク② 現場を見た、聞いたという幻想


1. フィールドワークを書く時の不安
 大学院入学時に、定性的方法論の講義を受けたときのことだった。確かその日のリーディングはシュッツ(1932)の『生活的世界の意味構成:理解社会学入門』であったと思う。日常世界を生きる人々の状況を、意味から読み解いていく現象学的社会学に衝撃を受けた。当時の私は、研究とは現象を観察して何らかの法則を発見していくものだ、と素朴に捉えていた。その後に先輩に進められてバーガー=ルックマン(1966)の『日常世界の構成:アイデンティティと社会の弁証法』を読み、客観的に法則を発見するのではなく、現象の成り立ちを人々の主観から捉えていこう、という方向性に一気に転回した。
 なんでこの方向に転んでしまったのかというと、修士論文では社内ベンチャーを、博士論文では企業家を研究テーマに選んだことに関係している。シュムペーター(1926)の『経済発展の理論』において、企業家の動機が私的王国の建設、勝利者欲求、想像の喜びという経済学には還元できないものとして定義され、その後(たぶん今もなお)の研究でも企業家とは得意な動機を有し、イノベーションというハイリスク行動へと踏み出す存在としとして認識されていた。シュッツから始まる(と言って良いと思うが)主観主義的な方法―エスノグラフィー、エスノメソドロジーといったいわゆるフィールドワークは、よく犯罪や非行と言った逸脱行動へ注目していく。だとすれば、企業家のフィールドワークから、社会的に正統化されていく、ポジティブな逸脱行動として企業家を理解できるのではないか、というのが今から20年ほど前に、ぼんやりとしたアイディアとして思いついたのだった。
 文化、コンテクスト、日常生活世界、意味付与、エスノメソドロジー的無関心に会話分析、当事者がいかに社会を「なして」いるのかを分析するための概念や手続きについて色々と学び、インタビューを続けて論文を書いているうちに、「はて?」と思い悩み始める。
 今、目の前のディスプレイに映し出されている私が書いているテクスト、インタビューで聞き取り、彼らの理解を、彼らが生きる日常世界の背景から細かく記述しているこのテクストは、はたして「彼らの生活世界を書けているのか?」という疑問である。もっと言えば、私は彼らの生きる生活世界を理解できているのか?
 そういう悩みをうっちゃってしまわないと、論文は書き上げられないのは確かなのだけど。

2. 真面目にテクストを書くほど迷子になる
 2000年代くらいから、フィールドワークの方法を議論する論文や書籍で、フィールドノートとしてまとめたデータをコード化して、統計的に因果関係を検証していくソフトウェアの利用を奨励されることが目立ち始めた。私の目に入った範囲でしか無いけど、グラウンデッド・セオリーや言説分析では、導入が早かったように記憶している。
 この手のテクノロジーの導入は客観―主観論争と例の論法(ラディカル・フィールドワーク①例の方法:客観とか主観とか、を参照)を技術的に裏付けするという意味では役に立つだろうし、海外ジャーナルで結構利用されていたりするから、使い方を覚えておいて損はないとは思う(私は全然使う気がないのだが・笑)。ただ、これで現象を捉え、理解しているというと、二重の意味で怪しい。
 第一にソフトウェアを利用して定性的な分析が統計的に有意でしたと書いてしまうと、わざわざ現場に出向いてフィールドワークをやったことの意味が薄れてしまう最悪の折衷主義でしか無い(そんな手間かけるなら、最初からアンケート調査をしたら良いのではないか?)。もちろん、例の論法に則って、査読を通す記述として認められるシグナルとしては担保になっているし、それで論文として学術誌に乗るなら良いじゃん、という開き直り方も有りだとは思う。
 第二に、統計的に有意だからといって、それが現象を把握して、何らかの意味ある記述ができたとことを担保しているわけではない。私としては、こちらのほうが大きな問題であるように思える。現場に首までどっぷり浸かって、見て、聞いてきたことをテキストにまとめていく際に生じる、「彼らの生活世界を書けているのか?」という疑念。これはソフトウェアで担保したからといって、解消するわけではない。
 ソフトウェアの問題だけじゃなくて、グラウンデッド・セオリーや会話分析のように、分析の手続きを厳密化していっても、それは査読者側の了解を得るための手続きであり、なんならその手続に則れば同じデータで同じ理解にたどり着く再現可能性を担保しているのに過ぎない。それは「彼らの生活世界を書けている」のではなく、実はソフトウェアや手続きによって再構築された第三者(査読者を含めたアカデミズムの住人)の認識を反映したものであり、下手をするとデータを解釈し、テクストを書いていた「私」すら存在しないテキストになっていく不安に襲われていく。
 はて、これはシュッツの目指したフィールドワークを通じた生活世界の記述なのだろうか。それどころか、このテクストを書いた「私」はどこに行ってしまったのだろうか?

3. 現場を見てきた、聞いてきたという幻想に自覚的になってみる 

 ソフトウェアや分析手続きに基づいて現場から得たデータを分析している時の「彼らの生活世界を書けているのか」という疑念、あるいは査読者とのやり取りで解釈を変えなければならない時の「これは、私が書いたテクストなのだろうか」という不安、そういう疑念や不安がどこから生まれるのかというと、おそらくは「私は現場を見てきた、聞いてきた」とく自負ではないか、と私は考えている。
 フィールドワークを方法として選んだ人間は、どこかで、現場にはまだ見ぬ、まだ知らぬ真実が存在するというロマンを胸に抱いていると思う。そういうロマンがないと、現場になんとかアクセスして、何度も現場に通ってその場で生きる人達と信頼関係を築き上げ、時には当事者の一人として現場に関わるというような、手間のかかる方法を使わないと思う。論文を書くこと自体が目的なら、もっと簡便な方法があるのだから。
 ただ、研究者が現場に赴くことで、人々の「生活世界」を捉えることができる、もっと言えば、現場にまだ見ぬ真実がある、というのは幻想であることに、フィールドワーカーは自覚的になる必要があると思う。それこそ、社会構築主義―言語論的転回を経験した私達は、素朴なロマンを期待して、現場に向かうことはできないと、私は考えている。
 大学院生の頃、深夜番組で放送されたあるドキュメンタリーが、現場に赴くことのロマンと難しさを表現していたのを記憶している。ディレクターが学生の頃から通い続けている京都のお好み焼き屋さんの名物おばちゃんを取り上げたドキュメンタリーだったのだが、いざ、撮影に入るとおばちゃんは、結婚式に出るときのようなドレスで着飾って鉄板の前に立ったのだ。「いつもの姿」を撮りたかったディレクターは頭を抱えてしまうわけなのだが、私はナルホド、と思った。
 撮影される、テレビで流れるという撮影者との関係で、彼女は「恥ずかしくないように」というのと「ディレクターへのある種のサービス」として着飾ったのだ。それは観察者が現場に影響を与えたというよりも、「店のお客」ではない「大事な(何らかの社会的影響力を持つ)特別なお客」をどうもてなすのかという、おばちゃんにとっての「日常生活」のあり方である。それを、「いつもの姿じゃない」と頭を抱えるディレクターの姿こそ、フィールドに立つ私達が反省しなければならない点ではないか、と当時の私は考えた。
 なぜ、ディレクターは頭を抱えたのか。自分が撮りたい「絵」が、おばちゃんの気遣いで台無しになったからだ。でも、お客さんによっては着飾ることも、そのおばちゃんにとっては日常なのだ。なぜ、ディレクターは、そのおばちゃんの日常のあり方まで受け入れることができなかったのか?
 要は、現場にはまだ見ぬ真実があるのではなく、私=研究者がみたい現実を見つけに行っているのである。ディレクターにとってはカメラが、研究者にとっては理論が、「見たい絵=現象」を切り取る道具となっている。エスノメソドロジー的無関心とかエポケーとか、そのような道具を一度なかったコトにして、現象に向かうことでその道具を放棄する必要性が強調されたりもするし、フィールドワーカーとして大事な態度ではあると思うけど、現場で観察され、インタビューされる人たちにとっては関係ない。大学から来たセンセイが、自分たちに関心を持ってくれているのだ。警戒されたり、もてなされたりするのは当然の自然的態度であると思う。そこまで含めて、どのように現場を見聞きし、テクストを書いていくのか、ということがフィールドワークに求められると、私は考えている。

4. 生活世界の発生とフィールドワークが持ち得る力
 その意味で、インタビューでも観察(参与観察)でもエスノグラフィーでも、実は現場の真実そのものを捉え、記述できるものではない。私のインタビューやフィールドノートは、研究者として理論的な角度がつけられる形で切り取られたものであることからは逃れ慣れない。更に、私が論文や書籍を書く時にデータとして取り扱っているものは、研究者である私を現場の人たちが持て成した結果、いわば共同作業で生み出された社会的現実である。フィールドワークで書かれた論文は、確かに現場から生まれたものではあるが、現場そのものではない、その矛盾にどこまで自覚的になれるのか。究極的には、何のために「私」は現場に赴き、現場の人達と対話し、「論文」を「書籍」を書き上げていくのかに自覚的にならない限り、そこで生産されるテクストに社会的行為としての研究は成立しない。
 その意味で私は、「これが現場で起こっていることだ!」、「これが真実だ!」という姿勢でフィールドワークから論文を生産し発表していくことは、一方で研究者がある種の思想や理論を押し通そうとする現場の収奪であり、他方でそういう研究者の意図を見通した上で、現場の人たちが研究者を利用していく「したたかさ」を見逃しているか、見て見ぬ振りをしていることになると思う。どちらにせよ、シュッツが目指したような「生活世界」の記述には程遠いのではないか。
 フィールドワークは不可避に現場の人たちに影響を与えてしまう。実験やアンケートという方法を使う研究者の方からすると、研究として成立しない大問題であるように思えるだろう。しかし、フィールドワークが「生活世界」を捉えられる瞬間があるとすれば、研究者と名乗る闖入者がおらが村(職場)に現れ、このヒトをどうもてなすべきかといろいろ工夫する、その瞬間でしか無いと思う。
 それこそ、いきなり現れたセンセイをどうもてなして、どう利用するのか、という現場の人たちの「やり方」に注目していくことが、その生活世界で生きる人達の生きる姿を捉えていくことであるのではないか。だからこそ、フィールドワークは研究としての社会的意味を獲得できるのだ、という地平に立たねばならない、と今、この現在の私は考えている。
 そう考えていくと、フィールドワークで得た私の経験を、どのような形で論文や書籍にまとめていくのか、その文体にまで踏み込んだ執筆戦略が、フィールドワークの方法において一番重要なのではないだろうか。その問題については、次回から考えていきたい。


参考文献
大月隆寛. (1997). 『顔あげて現場へ往け』 青弓社.
シュッツ,A(1932)『生活的世界の意味構成:理解社会学入門』佐藤嘉一訳 木鐸社.
バーガー,ピーター,トーマス・ルックマン. (1977). 『日常世界の構成-アイデンティティと社会の弁証法』 山口節郎訳 新曜社.


 


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