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Stress-Free Homeschooling 8

Chapter 9 スケジュール


8月の真夏の太陽の熱が降り注ぐ中、Samanthaはプールサイドに座り、息子のスイミング教室の様子を見ながら9月からの新年度のスケジュールに頭を悩ませていた。夫と二人で決めた次年度に子どもたちに勉強させる科目のリストが手元にあった。クロールに背泳ぎと何往復も泳ぐ息子の姿を見るために頭を上げては手元でどの教科は全員で、どの教科は個々で取り組むか、それぞれの子がどの教科を親と一緒に学習するかを熟考していた。
「ジグソーパズルに似ている…」と適材適所にピースを置きながらSamanthaはブツブツと呟く。今年は地理と作文といつもの音読(Samanthaは子どもたちにとても良い本を選んで読む)を全員で取り組もう。Jeff が一人で数学をしいる間にAvaにフランス語とスペリングを彼女と一緒に勉強できる。Ava が数学と書き方をしている間にJeffと…
毎年Samanthaはこの大仕事に直面していたが最終的にはやり遂げていた。
ザブ~ン!Samanthaは急いて頭を上げた。「良かった~」息子ではなかった。Jeffの飛び込む姿を見逃がしてはいなかった。
ルーティンは意図的であろうと、単に習慣化してしまうためであろうと、ほとんどの人が持つ傾向にあるもの。Chapter 5では学業以外のことに重点を置きながら、生活に役立つ意図的なルーティンをいくつかおススメした。
スケジュールはより意図的に立てられ、小さな子どもがいる間は必ずしも正式なスケジュールは必要ない(簡単なルーティンで十分だ)が、子どもが大きくなるにつれて、すべてが網羅されるように日々のスケジュールを立てる必要がある。

スケジュールの種類

主に2種類の時間割がある:行事中心と時間中心
行事中心のスケジュールは正式な授業が少ない小さい子どもに向いている。この種のスケジュールでは物事を行う予定の順番を考えて組めばよい。例えば、起床して一日を始める身支度(顔を洗い、着替え、聖書を読む)が整ったら、家族全員で朝食を摂り、片付けをして、子どもたちと聖書を読み、本を読み聞かせし、外に出て遊び、子どものフォニックスや算数をみて、おやつを食べ、それから…。これは時間に基づいてはいないが形にはなっている。
時間中心のスケジュールは年長の子どもがいて、より正式な教育/学習を行う必要がある場合に向いている。この場合、8:30から何々が起こり、9:00にはAは算数している間にBはピアノの練習、あなたはCの勉強をみる。などなど。
このように詳しく立てたスケジュールであれば、生徒が網羅する必要のあるすべての科目に時間を割り当てられ、他の子どもたちが各自で勉強している間に特定の一人をみる時間を作ることができる。

スケジュールを立てるヒント

1.   各自で勉強をする年長の子どもなら、何を勉強してどの教科書や教材を使うかを親と相談した上で自分たちでスケジュールを立てることができる。もし双方が望むなら、子どもたちが自分たち自身でスケジュールを考え、その内容について親であるあなたの承認を得るためにプレゼンする形式をとってフィードバックさせても良い。当然のことだが、スケジュールを立てる前に彼らが家族での学習/行事/お手伝いに、いつ関わらないといけないかを知っておく必要がある。
子どもたちが自立して成長し、私たちがそれを奨励するのは良いことであり正しいことではあるが、子どもたちも家族の一員であり、その自立とのバランスを取る必要がある。家族は良いものであり、家族は神によって定められたものであり、自分がやりたいことをやる今の世の中で子どもたちにそのことを見失ってほしくはない。
2.  スケジュールを立てる前に祈りを捧げ、それから夫君のフィードバックのために見せよう。謙虚さを示す良い機会だ。スケジュールを仕上げるには、熟考し、一番良いと思うものを決めなければならない。夫君が何か変更すべき点を指摘したら、当然私たち妻は反発するでしょう。実際にスケジュールを遂行するのは(ほとんど)私たち母親であり、私たちが一番よく知っているのであるから。そうでしょ?…そうとは限らない。夫と私は違った強みを持っている。夫はたいてい私のスケジュールの中に余白が欠けていると指摘する。そして彼の言う通りもっと余白を入れる必要がある。また私に再考させるような質問を投げかける。
3.  一旦数週間そのスケジュールで進めてみて変更が必要な箇所が見つかるかもしれない。それも良し。何度も繰り返し言っているが、あなたにはそうする自由がある!または数か月そのスケジュールでうまくいっても、赤ちゃんのお昼寝の時間が変わったり、10代の子どもたちのバイトの機会があったりして調整が必要になることもある。必要に応じて調整しよう。
4.  Robin's Rule(Robinのルール)を覚えているだろうか?:しようと思っている最初の二つのことは必ずする。その他は…できればする。
もし何日経っても成し遂げられない事柄があるなら、しばらくスケジュールの一番目か二番目に置いておく。当初(聖書の読書の後)算数とピアノの練習をスケジュールの最初の二つに入れていた。すると国語までたどり着いていないことに気づいた。そこでしばらくそれを一番目に置いた。

人生にはハプニングは付きもの:今までいろんなタイプのホームスクーリング家庭のママたちの記事を読んだ。中にはすべてを手中に収め、ホームスクールを軍隊のように運営する威圧的な母親のものも。そんな母親たちでさえ(目的がない場合に目標になる)スケジュールはゴールであり、それはいつも完璧に守られていない(守られることはない?)。なぜ?それは人生にはハプニングが付きものだから。私たちは止めたくない(止めるべきでない)学習経験のさなかに居たり、体調を崩してしまっていたり、その他の用事で予定通りに進まなくなったりする。私がこの本を執筆中にも、自分に課した締切日に間に合わせたかったが、高齢の母が転んで腰を骨折してしまった。その母の介護のために数時間離れた町に度々行くことになった。それは息子夫婦に二人目の赤ちゃんが誕生した数日後で、第一子もまだ幼い。なので、彼らの手助けをする時間も作った。そのためスケジュール調整が必要となった。私が居ない間、子どもたちには自学自習できる課題を与え、何日かはスケジュールから外したものもある。緊急事態になったので当然、私個人の課題(とりわけこの本を書くこと)は保留しなければならなかった。

このように組んだスケジュールを乱す出来事が沢山起こる。私からの励ましの言葉としては、決してイライラしないで冷静に受け止めて!最近のスケジュールの混乱で、子どもたちは、赤ちゃんが生まれたばかりの人の食事について学び、また、幼い子のベビーシッター業を学んでいる(私を先生として)。そして、困っている愛する人の世話をすることを学んでいると願っている。いつか、彼らが夫と私のことを気にかけてくれるかもしれない。

毎年の夏、Samanthaのように9月からの新年度のスケジュールを作り上げる。私はどちらかというとかなり自信をもって、それらのスケジュールをまるで芸術作品を見るように眺めた。しかし、スケジュールを守るのは至難の業だった。これは私の「laissez-fair (なるようになる)」というのんびりしたお気楽な気質の副作用かもしれない。ここになぜ私が(またはあなたが)スケジュールを守るのに奮闘しなければならなくなるかの原因を述べよう。
事態はかわる。先に述べた通り、赤ちゃんはお昼寝の習慣が変わったり、子どもたち全員が起きている時間を前提にスケジュールを組んでいたら一人寝てしまったり。私の定説では誰かが寝ているということはその子は疲れているから(または病気)なのだから起こしはしない。でもこれでスケジュールは狂ってしまう。
対応方法:先々の計画を立ててスケジュールを組むのは良いことだが、私たち親は現実的で、柔軟で、そして順応できる体制でいる必要がある。今までも言ってきたが、目的がハッキリしていなければスケジュールを追うことだけに囚われてしまう。計画やスケジュールを立てるのは良いことだ。でも赤ちゃんの機嫌が悪く構ってあげないといけないときに予定通りにできなかったことについて自虐的になったり落胆したりする必要はない。明日は明日の風が吹く。赤ちゃんの世話をする方が大切で尊い。あなたのその姿を見て子どもたちは学ぶ。これこそ生きた学習だ。
もし子どもが寝坊してしまいスケジュールに遅れが出たならば、その日にすることの中で大事でないものはしなくて良いことにする。何が重要かを決め、それらを優先して取り組む。もし子どもがあなたの考えている開始時間になっても起きないで常に寝坊するようなら寝る時間を早める。でなければスケジュール調整が必要だ。その自由もあなたにはある!または気にせずその子を起こす。そうすれば計画通りに学習を進めることができる。
スケジュールでは次のテーマに移る時間となっていても、途中で止めずに終わるまで取り組むことが大事だと思う。時間になったからと言って今していることを中断して次に移る必要性を感じない。
対応方法:スケジュールを立てるとき、予定されているイベントやテーマが予想よりも長くかかる日があっても良いように十分な余裕を持たせる。次のテーマに進むために中断しなければならないと感じずに、今取り組んでいることを気が済むまでやっても大丈夫なように柔軟に計画を立てること。時にはそのまま続けてその日は次のテーマへは移らない。その日はそれをすっ飛ばして次の日にすれば良い。
ある程度柔軟でおおらかでいることは良いことだ。人生に楽しみを与える。例えば私たちが住んでいる地域は一年の内5ヶ月間は雪に覆われる。最初にふわふわした白いものが地面に降り積もるのを見るといつも特別感がある。なので、その時は全てを投げ出して外に出て初雪で遊ぶ。また、暖かな春の日には浜辺に行き、他の子たちが学校に行っている間自分たちだけの貸し切り状態で遊ぶ。
対応方法:自発的な行動を継続的に続けるのは、長期的には家族にとって良くはない。でも時々自発的な行動をすることで、人生に喜びをもたらすことができる。これは確かにホームスクーリングの醍醐味の ひとつだ。

Chapter10 楽しもう!

Ritaは家族のために全てを注ぎ込んでカラカラになっていた。新生児とよちよち歩きの子とホームスクーリングしている3人の子どもたち、それに夫や家事も疎かにすることもなく。でも彼女が5人の子持ちでしかもその子らをホームスクーリングで育てていることを知った人は信じられないという驚きの顔で反応した時、Ritaは微笑みながら素直な気持ちで「楽しいのよ!自分で考えている中では一番満たされることなの。本当に恵まれている!」

Ritaは疲れていた?そう。でも彼女は自分がしていることを楽しんでいた?それはそうだろう!(少なくともほとんどの時間は)

そのようにしてホームスクーリングを楽しみ、またどのように楽しみを見出していくかの具体的な方法をお伝えする前に、役に立つものの見方の土台となる言葉を紹介しよう。

ローマ人への手紙12:1には「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」

神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてこの身を捧げるということは、私たちは自分自身を神に差し出したということだ。私たちは神のもの。したがって、私たちは神の指示に従う。私たちが行うすべてのことは、神の指示に従って行うものであり、それは私たちの神への賛美。

説明しよう。何年も前、私の娘の一人が母親に関連するこの聖句の応用を聞いて、それを私に教えてくれた。もし、神が私を意図して母親にしてくれたのならば神の命に従い母親業をすることは私の信仰心の現れとなる。私が神を拝むただ一つの方法ではないにしても、最も大切な方法の一つであることには違いない。この概念を理解すると、例えば赤ちゃんのオムツを換えている時、私は神に母親になるように求められてしているのだと気づいた。これは赤ちゃんの臭いオムツを交換している時の私の態度にまで影響してしまった!時には「これが私の神様への祈り♪」と歌うことも。赤ちゃんも私を見上げて「やあぁ~」と歌った。

オムツ交換が神の命に従ってのことで、神を拝むことに等しいと気づいてからはより楽しくなった。

知ってほしい。あなたに子どもがいる場合、あなたがその子を産むつもりだったか、子どもが欲しかったか欲しくなかったに拘わらず神によって計画されていたのだ。子どもたちはあたかも「おっと!あの子は産まれる予定じゃなかった!」と神の傍をすり抜けたて偶然生まれるものではない。もし神があなたに子どもを授けたとしたなら、それは神が計画されたものであり、あなたに母親になるように求めたということである。神の意向だと受け入れ、神を拝むのと等しい行いだとして子育てしよう。

もし神があなたにホームスクーリングをするように導いたなら、それは神の意向に沿ってそうするのであり、それは神を拝むのと等しいことになる。本当に困難に直面した時(特に困難に直面した時!)であってもホームスクーリングすることは神の思し召しであったという認識があれば日々の任務を果たす際に物事の捉え方に変化が出るだろう。毎朝ベッドから起き上がり「神様、私はここに居ます!あなたの意思に従ってあなたを信じる新たな一日が始まります。どうか今日、あなたが私に命じられたことを実行できるよう、力をお与えください。」
覚えておいてほしいのは、神は善であり、すべてを良い方向に働かせてくださる。私たちの人生における困難な出来事には様々な理由があるが、その内の一つの理由は、それは自分のためにあるということ。我が愛する天の父はご自身の姿に合わせて形作り、私たちを神聖化し、神聖なものとするために私たちの身近にあるありとあらゆるもの(子どもたちやその子たちをホームスクーリングすることも含めて)を使っているのだ!

これが日々頭にあると、前向きな気持ちになるし、していることが楽しめる。ローマ人への手紙12:1を書き出して、一日の始まりに目に入るところに置き、よいスタートを切れるように祈る。

次のようなことを祈ることをおススメする:「天にまします我らの父よ、私は今朝自分自身を生きた供え物として捧げたことを再確認しました。これはあなたへの崇拝、すなわち従順を表します。今日なすべきことができるようにあなたの神聖なる力を与えてください。」

優先順位の維持

第3章で精神的、肉体的健康、結婚と子どもたちのことなどの優先順位について意図的に行うことの重要性について書いた。
結婚すると、人は新たな方法で自分がいかに自分本位かということに直面する。相手のこと、相手の望みやものの見方などを考慮に入れなければならない。少なくともこれは自分を成長させる経験。
良い結婚生活においては、夫婦は互いを思いやり、神の栄光のために互いに仕え、神から与えられた役割を果たすよう努め、配偶者が自分の役割を果たすのを助ける。
子どもを持つことは自分の利己心と罪に触れるもう一つの方法。もし私が子どもを授かる前にあなたが私に「あなたは忍耐強い方ですか?」と聞いたならば「もちろん!」と言っただろう。夜泣きする赤ちゃんの登場。泣き止まない赤ちゃんと一緒に午前1時30分に起きていたくなかった。温かくふわふわとした母性は湧き出なかった。それどころか、こんな時や子育て期間中の他の多くの場面でも邪悪な感情を持っていただろう(持っていた)。確かに信心深さを育てる機会は沢山ある。

母親として私たちは絶えず力を尽くしている。自分自身の精神的、肉体的健康に気遣うことと、結婚生活を大切にすることはわがままなことではない。それは神と家族に仕えるために必要なことなのだから。心身ともに健康でこそ尽くせる。
長女は自分自身を無視して神や他の人に尽くす傾向があった。自分の時間も持つ必要があるのではと彼女に言った時、長女は反論した。長女は私が「自分」時間が必要だと話していた母親たちに対しての私の長年の反応を見習っていたのだと。

私が反応してきた「自分時間」は、健康的な生活、つまり適切な栄養補給、十分な睡眠(取る努力をする)、身体を動かす(小さい子の母親なら既に組み込まれている)、神の世界に浸って祈る、より良い結婚生活を築く、というそれらのための「自分時間」ではない。私は全く違ったことに反応していた。それは自己中心的な考えを基にした「自分時間」だ。

神を求め、健康的な(上記で述べたような)ライフスタイルとわがままなそれとの違いを見定めよう。

今この瞬間を楽しむ


私たちの中には生まれながらの今この瞬間を楽しむ人がいると思えば、自然と先々を見越し、これからのことを考えたり、起こり得る問題などに思いを巡らしたりする人もいる。ここが後者のタイプの人の頑張り処だ。子育てには数え切れないほどの楽しい瞬間がある。経験してみなければ分からないことではあるが、この本を書いている時点で8人の子どもを育て終わった母親として言わせてもらうと、その瞬間は現に過ぎ去ってしまっていて、永遠に戻っては来ない。だから今この瞬間を楽しまない手はない。

どんな瞬間か?どの瞬間もそう。例えばオッパイをあげている時に赤ん坊が自分を見上げて「ママが僕のすべてだよ」と言わんばかりの眼差しで見上げた瞬間、廊下を歩く時に小さな手がしっかりとあなたの手を握り締めた瞬間、はたまた小さなぷにゅぷにゅした腕をしっかり首に巻き付けて抱きついてきた瞬間。年少組の子が一人でパンツを履けるようになったとか、b-a-tをbatと読めるようになった瞬間や、達成感でいっぱいになる「分かった」瞬間。ソファにうずくまって座り、子どもたちに本を読み聞かせている瞬間。子どもが本に出てきた難解な言葉を使えた瞬間や大人と聡明に礼儀正しく対話ができた瞬間。10代の娘と外出した時に母親と一緒に出掛けることを喜び、10代の若者にありがちな生意気な態度を取ることがない瞬間。人生にはそんな素敵な瞬間が満ち溢れている。

でも、正直に言うと、そうではない瞬間もある。難しいことに直面する瞬間もある。行くべき道に進むように子どもたち(親と同じく罪人)を導くのに苦労する時期もあった。(箴言 22:6)

どのようにしてこれらの楽しくない瞬間や困難を極める時期を楽しめるのか?答えはへブル人への手紙12:2にある:「あなたがたの信仰の指導者である教師であるイエスから、目を離さない方にしなさい。イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられ…。」これと一緒にガラテヤ人への手紙6:9の勧告に耳を傾けよう:「正しい行いをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。」もし子どもとやり過ごしにくい時期にいるのであれば、神を仰ぎ見てやるべきことを知り、諦めず、いつか報われる日が来ると信じる。

どんな状況であれ、私たちは感謝の心を養う必要がある。

感謝と落胆

本著はホームスクーリングをしているお母さんたちを助け、励ますために書いているが、これを読んで自分や自分の家族の生き方の多くを変えていかなければと思い始めてもらえていたらこの上なく嬉しい。励まされる代わりに実際に圧倒されてそれ故落ち込んでしまっているかもしれない。

祈り、それからすぐに実践できる一つ、二つか三つくらいの役に立つアイデアを上げてみよう。夫君も一緒に取り組むことが大切なことなので、よく話し合ってほしい。共に神を仰ぎ見て優先順位をつける。覚えておいてほしいのは神、夫君、そして子どもの順。共に過ごす時間は反映されない。なぜなら母親であるあなたが最も長い時間子どもたちと共にいるのだから。でも最初の忠誠は神に。次いで夫君。そうすれば子どもたちはもっと良い子になるだろう。

比較もやる気をなくすことを覚えておいてほしい。比べないこと!

人にはそれぞれに得意分野がある。自分の強みを知ってそれに感謝する。神様からの恵みなのだから。それを活用し、大いに利用する。もしあなたが自然を探検するのが大好きならば、それを子どもの教育の主軸におく。子どもたちはそこから多くを学ぶだろう。本来の自分でない母親でいるよりも、教えることが楽しいはず。物を建てるのが好きな母親ならば子どもの教育の大部分に取り込めば良い。その能力を利用することで他の科目へと学びを広げられる。

私は子どもたちに本を読み聞かせるのが好きだ。だから多くの時間子どもたちを膝に乗せて本を読んだ。もてなしの心は私が神から頂いた有難いギフトで、このお陰で食事や一晩、あるいは数週間我が家に滞在した客人たちから子どもたちはいろいろ学ぶことができた。

あなたも自分の強みを見つけ、それをフルに活用し、あなたに与えられたものと、あなたという存在の意味を見出せばあなたも子どもたちもより花開くだろう。そうすることで誰かの型に自分をはめ込むよりもホームスクーリングは格段に楽しくなるだろう。

感謝を感じる筋肉を鍛えよう。感謝の気持ちを表す練習をしよう。あなたの人生に関わる人たち(これはあなたの子どもたちのこと)との楽しみ方を知ろう。あなたが子どもたちと一緒にして楽しいことを毎日しよう。私なら子どもたちへの読み聞かせ、そして冬なら外に連れ出してスケートやそり滑り、それか雪だるま作り。あなたなら別のことをしたいでしょう。ここで分かってほしいのは、筆者やその他の著者、それに講演者などが「毎日」と言った時、それはあくまで目標だと言うこと。人生にはハプニングが付きもので、病気やその他の中断しなければならない事情が出てきても決してガッカリせずに、取り組めるようになったらまた始めれば良い。

子どものうちの誰かが時と場合によって機嫌悪かったり、反抗的だったり、頑固だったりするものだ。そのような時期は「楽しむ」と言う言葉とは程遠い。息子の一人が5歳の頃、一日中いうことを聞かなかった。そしてその都度叱られ続けていた。それが何週間も続いた。ある日彼を寝かしつけていたら、息子が私に「僕は酷い子」と言った。私の心は折れた。「酷い子なんかじゃないよ。私たち人間はみんな罪人で悪いことをしているの。だからあなたは酷い子なんかじゃないから。」自分は酷い、悪い人ではないことを理解させようとした。その後、息子のどんな小さなことでも褒められるところを見つけ出そうと夫と励まし合った。Chapter 6で書いた方法での読み方を教えていた時、息子は「分かった」と言った。それは「c」「a」「t」で「cat」となり、「b」「a」「t」で「bat」、「s」「a」「t」で「sat」になることだった。それから瞬く間に彼の態度は変わった。それは自分の価値を見出した瞬間だった。

その時期、私は自分の感謝筋肉を思いっきり鍛えなければならなかった。なぜなら感謝することはとても難しく、感謝できるものがそこに流れていなかったから。何に感謝すれば良かったのだろう?うーん。協力的な夫が居たこと。一貫して毅然とした愛情を持って接しようとする両親のいる温かい家庭にいたこと。神が私に力を与えてくれていること。息子の人生に神が常に居ると期待したこと(そうなった)。

落ち込む時はある

上記の時期のように私たち親は皆、時として落ち込むことがある。誰もが通る道だから、あえてそのような状況を悲観することもない。人間だもの。でも落ち込んでいる時、神が私たちを助けうるし、助けてくれることを信じて神を頼っていないのではないかと思う。

従って落ち込んだ時は最初にするべきことは神に今の状況を話し、助けを求めることだ。何年か前、私があまりにも落ち込みすぎてお手上げ状態だった時の経験で、それ以来ずっと役に立つ教訓を学んだ時の話をしよう。

明晰で創造的で愛くるしい娘の一人は頑固でもあった。頑固で反抗的。何度もぶつかり合った。と言うのも私は娘の母であり、先生でもあったのでお手伝いをするように言うと同時に勉強もするように言う立場だったから。ある日、娘が8歳の時、算数でしてほしいところを言った。「できない!」と機嫌が悪くなった。「どうやってするのか分からない!」と。「できますよ。」と冷静に対応した。「同じ問題を前にもやったことあるじゃない。」「できない!全然分からない!」とどんどん声が大きくなる。「できるから。これが終わるまでお昼ご飯はお預けよ。」と言い放った。それは午前10時でこの課題が終わらせるのに最長で一時間半かかると見込んだ。お昼休みまでが最良の仕上げのタイミングだと思った。

その後、娘はお昼まで「できない!」と自分の部屋で文句を言い、叫び怒鳴り続けた。お昼ごはんのスープの鍋をかき混ぜながらその娘の様子に完全に落ち込んでしまった。「もう辞めた!」と心の中でかなり大きな声で叫んだ。(何を辞めようとしたのか分からなかったが、もう充分だと思った。)でもすぐに神の声が聞こえた。外から聞こえた訳でもなかったが、頭の中での自分の考えよりも強く響いた。神は私にこう言った。「わたしたちは、善を行なうことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」後で見つけるまでそれが聖書の一節だと知らなかった。(ガラテア人への手紙6:9)

「分かりました。」とスープをかき混ぜながら言った。「やってみます。」
その後すぐ私たちはお昼ご飯を食べた。頑固な娘が相変わらず部屋で叫んでいる中「お腹すいた!」と課題を済ませるまで娘にお昼ご飯を食べさせない悪い母親だと思いつつ。でも私たちが食べ終わる頃、娘はたった5分で課題を仕上げた。しかも全問正解だった!

神は私に伝えていた。そして神のその言葉は私たちに諦めないことを教えてくれた。種をまき続けよう。やるべき善いことをする。諦めなければ報われる日が来る。私はその言葉を心に留めて夫と二人、娘とその他の子どもたちも一生懸命に育てた。よって私たちは神の恵みによって収穫を得ることができた。その娘の心が入れ替わるまでその後祈りと努力を重ねて数年かかったが、変化は間違いなく起こり、娘は素晴らしい信心深い人間に育ってくれた。娘は自分の取った態度にとても後悔しているが、
私たち親が彼女を愛し躾けし続けることに疲れなかったことを有難く感じていた。この娘が10代後半の頃に私に母親業は神を信じることと同じだと言ってくれた娘だ。

補足:この娘が頑固な子どもだった時、誰かが私にこの娘が将来信仰に対して頑固であれと祈れば良いと。私は祈った。そして何年か後、実際にそういう娘になった。

なぜこんな育て辛い子の話を「楽しもう!」のタイトル下で書いているのか?前にも言ったが、難しい時期は必ずある。しかしながら困難な時期にあっても、愛おしい瞬間はある(そんな瞬間は必ずある!)だけでなく、希望を持って未来に目を向け、涙で蒔いた種がすべて喜びとなって実り、刈り取れる時期が来ることに目を向けることで、希望に満ちた前向きな気持ちでいさせてくれる。日々神の言葉を読み、愛する神聖なる神に祈ることでホームスクーリングをする使命となった私たち親にそれを楽しむ方向に導いてもらえるのだ。

まとめ

どのようにしてこの素晴らしいホームスクーリングをするという使命を心配やストレスなしにこなすかは、神に与えられたギフト(子どもたちも含め)に感謝し、神を信頼し、その教えを私たちと子どもたちの人生の中に活かしてこそである。長い目で物事を見なければならない。気弱にならず、神の言葉を心に留め、共に同じ道を歩む配偶者や友にも励まされ、気分を切り替えていこう。

あなたは神と共に一人の人間を育て、彼らは永遠に生き、神に祈り続けるだろう。私はすぐにでもまた同じことができる。

どんな立派な社会的地位にあって、どんなに沢山の0が付くような巨額の所得を得ていたとしても、あなたを信頼して繋ぎにくる小さな手、読み方を教えたことで知る楽しさを手に入れた娘の姿、大きくなった息子に育てたことに感謝されること、「ママは私の大親友」と大人になった娘に言われること等には代えられない。このようなやりがいのある経験を味わえると知ったCEOがいたならば、きっと自分の仕事の特権を放り投げてこの素晴らしい心満たされる経験の方を選ぶと信じたい。

どうかこれを励みにしてほしい。あなたには価値ある、やりがいのある使命がある!楽しんで!!(おわり)


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