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任意売却の実際。孤独死寸前でアルコール依存症のAさんが立ち上がるまで。(下)

 自宅の売却が決まり、お酒の量も徐々に減ってきて、仕事に行ける日も増えて目に力が入ってきたように見えたAさん。

 そのAさんが孤独死寸前までになるまでのお話です。

 ある年の8月。売りに出していたAさんの自宅の売却契約が決まりました。それから約2か月のうちには引越をして、新しい所有者に家を引き渡すことになりました。

 引越先を探すとき、Aさんにとってとても大きな出来事が起こりました。

 Aさんは自宅を売却して、近隣で賃貸マンションを探すことになりました。外国からまだ見ぬ女性を連れてくるつもりなので、ファミリー向けの賃貸マンションです。たまたま元の自宅から徒歩数分の場所にぴったりの物件が見つかって、入居の申し込みをした時です。

 一般的に、賃貸物件を借りるときには連帯保証人か緊急連絡先を用意します。殆どの場合は身内です。Aさんには社会人として働いているお子さんが3人います。そのなかで唯一連絡を取っていた長男に連帯保証人になってもらおうとしていました。

 私は、長男が連帯保証人になってくれることは無いことを確信していました。

 私は長男から直接聞いていたのです。Aという苗字も母方のものに変えて、今後一切の縁を断つということを。

 私がそのことを長男から聞いたのは、Aさんの自宅を掃除していた時です。まだお子様の荷物が残っていたので、その処分をどうするか迷っていた時に、Aさんを通して連絡しました。その時に電話で直接、縁を切るということを聞きました。

 私は、Aさんにそのことを伝えるべきか迷いましたが、その時は伝えないという判断をしました。Aさんと長男との親子関係に入っていくことは、仕事の範囲を越えていると考えたからです。

 それでも、引越しの期限が迫った時に、私からそのことを伝える必要がありました。その時のAさんの目の変化を今でもはっきり覚えています。一瞬にして輝きを失い、力をなくし、悲しみの色すらもすぐに消えて、ただの黒い眼球になりました。

 頼みの長男とは縁を切られ、唯一の兄弟からはあっさりと断られ、何でも相談してよと言っていた行きつけの飲み屋の店主からも断られました。最終的に、私が個人的に連帯保証人になり、何とか引越を済まして自宅の引渡しを終えることができました。

 自宅の売却で取引の決済が終わった後、Aさんは私をお寿司屋さんに招待してくれました。これでようやく一連のことが過去になったと。まだ60歳、まだまだやり直せるといった話をしました。

 ですがAさんはその時期から様子が変わり、明らかにお酒の量が増えていきました。仕事に行く頻度も減り、それと反比例するように飲み屋やお酒の量が増えました。

 それでも、あと少しで外国から彼女を呼んで一緒に暮らすんだと、何とか、自分を奮い立たせて、お酒と距離を取るようにしていた形跡はありました。

 私はAさんの連帯保証人です。念のために部屋の鍵を預かっていたので、週に一回くらいは顔を出すようにしていました。彼が仕事に行っているときもあれば、自宅で寝ているときもあります。

 相変わらずAさんは掃除を全くしません。ゴミ捨てすらも。Aさんの部屋にはお酒の瓶がドンドン増えていきます。それと比例するようにAさんの在宅率がドンドンと増えていきます。空き瓶や食べ残しに群がるコバエ達も増えていきます。息を止めてから玄関に入り、急いで部屋の奥まで行って窓を開け、窓から顔を出してようやく息を吸う。そんなことをした時もありました。

 なぜ、Aさんはそんなに変わってしまったのか。それはAさんの夢が叶うことが無いとAさんが気付いたからです。

 Aさんが思い焦がれていた彼女とは、とある東南アジアの女性です。彼女のお姉さんがAさん行きつけの飲み屋で働いていて、Aさんと彼女はそのお姉さんのテレビ電話を通じて知り合いました。そのテレビ電話だけを通して、Aさんは彼女に恋をしました。そしていつしか奥さんとして迎えて、今後一緒に暮らしていくことを夢みていたのです。

 私が夏に車の中でAさんからその話を聞いた時、何となく危険な感じをしました。ですが、Aさんが元気になる原動力になればいいと思い、「気を付けなよ」と言うだけで終わりにしていました。

 Aさんは、自宅の売却が終わった後、渡航費としてなけなしのお金の大半を彼女のお姉さんに渡しました。来週になれば彼女が来る。Aさんは頑なにそう言い続けて、秋から冬に季節が変わりました。そして彼はある時、私の顔を虚ろな目で見ながらぽつりと言いました。「俺はもうダメだ」と。

 それからの彼は早かったです。全く仕事に行かなくなり、口にするのは相変わらずお酒だけ。もともと細かったのがさらに細くなり、私と初めて会った時のAさんにすっかり戻っていました。いや、寧ろ当初よりも危険だったと思います。真冬の寒い日にランニングシャツとオムツだけを身に着けて布団の中にいる。「寝る」ではなくて「意識を消している」という表現の方がしっくりくるような感じです。

 そんなAさんを見ながら、孤独死という言葉が現実的に見えてきたとき、行政に頼ることにしました。役所の生活保護の担当に連絡し、本人からの連絡でないと動けないという役所を何とか説得し部屋に来てもらいました。電話では伝えきれないAさんの現状を直接見てもらいました。Aさんの生活保護はその場で決まりました。

 生活保護の受給が決まっても、Aさんのアルコール依存症が良くなったわけではありません。Aさんはある日の深夜、近所のコンビニに行ってお酒を買ったところで、とうとう歩けなくなってしまいました。

 本当にたまたま、通りすがりの警察官がAさんを見つけて声を掛けました。警察官によると、その夜のAさんは10メートル歩くのに30分近くかかったそうです。その場でAさんは近所の病院に搬送されて入院しました。その翌日、警察官から役所に連絡がいき、役所の方から私に連絡が入りました。

 Aさんは、入院があと少し遅く、行政の力を借りることが無ければ、恐らく本当に孤独死をしていたと思います。医師の話と役所の方と話す中で、みんながそう思っているのがわかりました。

 Aさんは病院で年越しを迎え、入院から1か月程度で手摺伝いに歩けるくらいに回復しました。その頃に、行政の方からアルコール依存症の更生施設への入所を進められました。最初は嫌がっていましたが、私も一緒に何度か話し合い、入所を決心しました。

 その後、賃貸の解約やお金の精算等は役所の方と私が協力して行い、Aさんは無事に施設へ入所しました。

 施設は最長で2年の予定です。携帯電話含め、私物の持ち込みは限られたものだけです。Aさんは昔からの趣味であるアコースティックギターだけを持って施設へ入りました。

 Aさんのギターを施設に届けた時が、私がAさんと顔を合わせた最後です。少し心細いような、それでもここで立ち直るという決意が浮かんでいるような、とても多くの色をしたAさんの目を覚えています。

 それから凡そ半年を過ぎた時、この物語の冒頭のように、Aさんからの連絡を受けました。今はAさんが何処でどの様な生活をしているのかわかりません。私にとっての、Aさんの物語はこれで終わりです。


 私はAさんとの案件を通して、とても多くの学び・気付きがありました。 任意売却というものの意味、人にとってのお金や人間関係の意味、生きるということは何なのか。とても沢山の事を考えさせられました。

 Aさんの物語は、とても偏りがあるものですが、紛れもない現実であり真実の一つです。

 私の携帯にはAさんの連絡先が登録されたままです。その番号が今もまだ使われているのかも分かりません。きっと、今後もわからないと思います。それでもこの先、Aさんの登録が消えることは無いだろうと思います。

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