どうしてデスカフェを主宰するのか?

最近、デスカフェを定期的に企画しています。

デスカフェ。
「死」を意味する“Death”という語感は結構なインパクトがあるらしく、ちょっと怖いなと思われることが多いようです。
また「デスカフェをやるよ!」と告知をすると、すごく好意的か、あるいはほぼスルーか、反応が両極端。
このあたりも「死」というトピックに対する世間の関心度のギャップが表れているように思います。

「死」に関するトピックを、もっと気軽に話せる社会にしたい。
デスカフェをはじめに企画した時から、ずっと言っていることです。
このことに対する異論はほとんど聞きません。
でも、だからといってなぜわざわざ時間を設けて話そうとするのか?
もっと楽しいこともたくさんあるのに、どうして話すとしんどい話題を取り上げるのか?
今はまだ死は縁遠いもので、自分とあまり関係ないかな…。
スルーする人の本音は多分こんなところだと思います。

なぜ私がデスカフェを企画するのか?
どうして「死」を話題にし、対話を望むのか?
この動機の根っこの部分を、ちょっとお話したいなと思います。

++父の死のインパクト

2年前、父が他界しました。
ここ数年は要介護で、ぼんやりしていることも多かった父。
家族から頼りにされ、家族の幸せだけが喜びだった愛情あふれる父の面影は徐々に薄れ、ワガママを言ったり、ちょっとしたことで泣いたり、まるで子供に還ったようでした。
それでも、私にとって父は父。
弱りゆく姿を見ながら数年かけて少しずつ覚悟をしていたとはいえ、父の死のインパクトは耐え難いものでした。

大切な人と死別した体験がある人はおわかりだと思いますが、夜になって横になるとどうしても涙が溢れてくる。
自分が自分でないような、ふわふわして地に足がついていないような、妙な感覚が続きました。
普通に振る舞っていても、突然脈絡もなく泣いてしまうようなこともありました。

そんな時、周囲の人の中で一歩踏み込んで寄り添ってくれる人が何人かいたのです。
もちろん、気を使って触れずにいてくれるのも優しさだと思います。
そこをあえて踏み越えて「なにか出来ることがあれば言ってね」と声をかけてくれたり。
別件で会った人から「これ、お父様に」とお花やお菓子を頂いたり。
その中である人がかけてくれた言葉で特に印象に残ったのは、こんな言葉でした。

「生まれてきた時からあった存在がないという、未知の世界に身を投じている負担は相当なものですよ」

ああ、そうか、そうだよねえ…。
その時私はようやく自分の状態を受け入れられたような気がしたのです。

「父を亡くす」ということ自体はたくさんの人が経験していて、珍しいものでもはないのだからと、当時の私は抑えこもうとしていたような気がします。
でも「父がいない世界」を私は初めて体験している。
今まで当たり前に存在していたものがもういないというだけで、世界の見え方はこんなにも違うものなのか。
そりゃあ、つらくても仕方ないよね…。
つらい自分を受け入れて、ようやく自分を再生する入り口に立てたような気がしたのでした。

++知ることで、手を差し伸べる

そんな言葉に救われた経験は、私の死生観を大きく変えました。
もし周りの誰かが喪失の悲しみに暮れている時は、自分もあんな言葉をかけられるようになりたい。
きっと誰もが死について知ることで、自分の悲しみを和らげたり、誰かに手を差し伸べることが出来るようになる。
そんな人を一人でも増やせたら。
そんな優しい社会を、デスカフェで叶えられるんじゃないか?
私は、本気でそう思っているのです。

++現在企画しているデスカフェ

年内に、ちょっと変わり種のデスカフェを一つ企画しました。

知人の葬儀屋さんにお願いして、葬儀会館をお借りしたデスカフェを企画しました。
会館ツアーや、葬儀屋さんとのトークセッションもありつつ、死生観を見直すミニワークも取り入れた「大人の社会科見学」です。

ところが、早くも定員まであと1名、しかも来られないけど次回はぜひというお声も頂いたので、来年1月にも同じイベントを開催します。
⇩サムネイルが似てますが、こちらが来年のリンクです

こちらはまだ枠に余裕がありますので、ぜひ!

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