見出し画像

灰春

 春がやって来ました。翳りを帯びた仄暗い春です。来てほしくなかった。それでも時間は平等を装って過ぎ去り、季節は回ります。あたしはずっと桜の下に取り残されています。ひとりぽっちで。葉桜でさえあたしを孤独にする。悪くない、そう強がってみても、やはりあたしは寂しさを堪えきれなかった。永遠にあたしだけ此方側。手を繋いでいた友人も消えました。今ではもう鎧をつけて誰が誰だかも判別できない敵です。そちらは愉しいですか。あたしを連れて行ってはくれませんか。あたしは誰からも欲されなくて、彼らはもう奪うものもない。あたしを置いて去ってゆく。あたしは要らない人。

 花一匁。

あたしはいつだって最後の一人になるまで戦った。それに何の意味があったでしょうか。誇らしいことでも何でもない。あたしはただ要らなかった。この世界から弾き出されてもいい存在だった。何度目かの春です。もう数えるのもやめました。時だけがいたずらに過ぎゆく中、あたしだけがあの頃に閉じ込められている。あの子になれるのを待っている。誰も呼んではくれないと知っていても。此方と彼方を隔てる絶望的な鉄壁があると知っていて尚、いつまでも、向こう側に行けるのを心待ちにしている。ねぇ、こんなあたしに次の春なんて要りましょうか。雨に晒されて生きる毎日に、何の幸福も感じませんでした。雨粒の重みに耐えかねて撓る葉のような強靭さは持ち合わせておりませんでした。傷だらけになっては自分を庇いながら、独りで生きてきました。もう次の春なんて要らない。哀れみだとか同情だとかも願い下げです。これ以上あたしを惨めにしないでください。もうこれで全部終わりにしてやってください。

それだのに嗚呼——春が回ってまいりました。

 *
 この春で終わりにしようと覚悟して、僕の持っているもの総てを曝け出そうとした、そんな十七歳の春。桜は散った。また季節は性懲りもなく巡る。結局僕は書けなかった。何も紡げなかった。愛そうとしてみて駄目だったから、甚振ってやった。それでも駄目だった。寝付けない夜だとか深みに触れてしまいそうになったときは簡単に頭の中で増殖するくせに、それは一度っきり。二度と出てこない。書き留めておこうだなんてその時は微塵も思わない。どうせ僕を否定する言葉しか其処にはないのだから。けれど、平生と変わらない自分でいるとき、ふとその感情に触れてみたくなる。どうしてかは分からないけれど、無性に。何か大切なものがある気がして。心が欲している。その悲惨な思いを留めておきたい。しかし、それはいざ書こうとしてもできない。持ちうる総てを眼前に並べてやろうと意気込んでいたあの意志はふいと断ち切れ、あぁまた自分はくだらないことをしようとしていると向き合う手を止めてしまう。はなから其処には何もなかった。そう言い聞かせる。所詮僕は空っぽだ。高々十七年。山もなけりゃ谷もない、薄っぺらい人生だった。そんな平凡な人間に壮大なドラマなんてあるはずがない。僕の中は空洞だ。何も入っちゃいない。ゆえに語ることなどなにもない。語れない。大した経験もしていないくせに人生を語るなんて烏滸がましい。ただの恥晒しだ。僕は空洞だ。

 空洞。

そのくせちょっとチヤホヤされたいからって文学に手を出して、そんで駄文を連ねて小説家気取りをしていやがる。そんな奴が人生を語るな。人を語るな。己を語るな。求められてもいないくせにしゃしゃり出やがって。死んじまえ。クズが。薄っぺらい思想を厚塗りしただけの何の価値もない、阿呆の分際で、偉そうに。死んじまえ。おまえなんか、死んじまえ。

 馬鹿みたいに喚いて吐き捨ててみても一向に気持ち良くならないし、吐き捨てた筈のものが体の中に戻ってきて奥底に沈澱している気さえする。何だか鬱陶しくなってきて一足先に楽になっちまおうかなんて考えた。凡人は凡人なりに何も知らずに生きていりゃいいのに、存在価値とか存在意義の無さにうっかり気付いてしまったせいで地獄を見る羽目になった。お前には生きる価値がありません。お前には生きる意味がありません。誰かがそう言ってくれたなら心置きなく僕は飛べた筈だのに。生温い慈愛に雁字搦めで身動きが取れない。優しさを装った偽善が僕を余計苦しめる。

 所詮創作ってのは僕ら個人のマスターベーションだ。それを一般公開して、気持ちよくなっていやがる。ただの変態だ。せっせと自慰をして快楽に浸る。そんで他人様に見てもらう。エクスタシィ。自分の内なる恥の部位を自発的に晒す。それに感じ入るマゾヒスト野郎である。しかし快感もそう長く続いちゃおれない。相手に原稿を渡した時が最頂点で、そこから次第に賢者姿勢に入って、襲い来る羞恥心に耐えられなくなってしまい、訂正だとか気に入らないだとか適当な理由を付けて原稿を取り下げる。その繰り返し。歪んだ自尊心を満たすには丁度いい遊びだった。束の間の高揚を愉しむ、あぁ麻薬によく似ている。中毒性があるのもそっくりで、僕はこの悪趣味な遊戯にのめり込んでいた。やってしまったからには進むしか道はないし、あとは堕ちるだけだった。次第に禁断症状のようなものに魘されるようになり、そいつをかなりの頻度で打ち込むようになった。そうしてある時、ふと気づいた。爪先が断崖の縁に辿り着いてしまったことに。自分でも訳の分からない散文、浅い上澄みだけを掬ったような文章、意味をなくして死んだ言の葉。僕の生み出したものって一体何になったのだろうか。誰のためにもならない、いや、はなから誰も欲しておらぬ、ただの自己満足、それでいて傲慢で、人一倍強い承認欲求を拗らせていて……僕のやっていることはひょっとして何の意味もないんじゃないかしら。やることなす事総てに意味を求めるなんて馬鹿らしいと思ってはいるけれど……こんな無意味なことをいつまでやっているのかしら。途端、さっと血が下ってきて酷く冷静になった。僕は自分に酔っているだけじゃないか。中身が何もないくせして、さも自分の内に世界が広がっているような風を装って、それを創作という手段を通して美化しているだけじゃないか。捻れた思想をごねごねと並べ立てて、したり顔をしていた自分を思い返し、鳥肌が立った。気持ち悪い。自分本意の、ただの穢らわしい自慰行為だ。あたしの世界をご覧なさいだなんて、どの口が言ってんだ。お前の世界なんざ狭くて何も見えやしないくせに。あぁ、なんて気持ち悪い。増大する嫌悪。過去晒してきた恥。もう一切合切を精算したい。何もかも忘れて最初からやり直したい。

 麻薬というのは慣れると効きが悪くなるもので、限界まで行くとただの葉っぱになってしまうらしい。そんでもう一度欲しがるけれど、効き目はまったくなくて酷く苦しむ。のたうち回って、あれに焦がれて、だらしなく涎を垂らし、自傷する。一度知ってしまったものがなくなってしまうというのは人間にとって相当な苦痛であるらしい。もうどうしようもなくなって、ついには死んじまう。僕も今きっとその道を辿っている。もう今の僕に、創作による快感はない。あとに残るのは、またどうしようもない駄作を生み出しちまった嫌悪感と、こんなものを書いたクズへの軽蔑、殺意である。あの頃感じていた純粋な快楽はもう其処にない。それでも尚僕はその行為に執着している。何かに魅入られてしまっている。ひたすら暴れ、見失った自分の意義を取り戻そうと懸命に探して、そうして、はなからそんなものがなかったことに気づく。シナリオはもう見え透いているのだ。僕は散る。近い将来、絶対に。悲観しているのではない、これは諦観だよ。己が無価値、そして無意味であると知ったから。そして道楽であった創作さえも自己嫌悪の温床になっちまったのだから。

 ああ、もう堪忍してください。楽にしてくれ。でなくば、僕はまたくだらないものを生み出しちまうに違いないから。腹に溜まった駄文を堕ろしたい。もうこれ以上恥を遺したくない。お願いですから僕に春を下さい。どんなに残酷なものでも構わないから。今世の卒業に涙など要りませんよ。ですから早く、早く僕に春を下さいまし。終わりの春を。今世、いや輪廻最後の春を。ただそれだけを僕はひたすらに渇望しているのです。

 *
 *
 *
 ことりことりと電車に揺られながら、僕は手帳のページをぺらりとめくった。黒革の文庫本ほどの手帳。その見開き一枚にはインクで真っ黒になるほど文字が並んでいる。お世辞にも上手とは言い難い文字で、大小様々、斜めに上がったり下がったりとぶきっちょな羅列を成していた。僕がいつだったかに書いた文章だった。見開きに収まるほどの短さ。残酷な春に蝕まれた僕の軌跡。題は与えなかった。それほどの価値もないと思ったから。ただ発作的に、感情を剥き出しにして書き散らして終わった、それだけのものだ。存在意義の欠乏に気づいていた愚者。愛した筈の創作を拒絶した阿呆。あの春に閉じ込めてきた彼だ。もう今は隣にいない。

 十七歳。魔の年。不完全、多感で情緒の怪しい、そういうお年頃。それだけで片付けてしまえるほど単純ではない。抑圧と解放。その狭間で振り子のように揺れていた。決着のつかない両極で、どちらも愛していたかった。今はそういう時期なのだから。今しかできないことなのだから。若気の至り、と言われてしまうだろう。自己顕示欲の塊だとか、ジュブナイルの破滅願望だとか。これからの糧になるとは微塵も思っていない。だけど、いつか懐かしく思える日が来る、そう信じている。痛みを思い出と呼べるようになった時、きっとこの記憶に価値を付けられる、そんな気がする。

 この灰色の春が宝物になる日が、いつかきっと——いや、確かに訪れる。

 ねぇ、そうでしょ?

【終】



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?