美術館やアートフェスティバルが苦手だと何回行ったら気づくのか
日本各地の芸術祭やアートイベントが、あちこちで催されている。
いわゆる地方と呼ばれる、首都圏から電車や飛行機を乗り継がないと辿り着けない土地で、世界でも指折りのアーティストや、新進気鋭の若手が作品を展示したり、鑑賞者を作品の中に強制的に巻き込んだり招き入れたりしている。
そのスタイルは地域性と調和したりしなかったり、異物のまま恐れられたり観光資源として喜んで受け入れられたりしてきた。
わたしも、○○芸術祭と聞けば「おお、こんな地域も開催するのか、どれどれ」とチラシやウェブサイトなんかをチェックする。
そのどれも、デザインの気配りが行き届いていて、見ているだけで自分もその気配りの受取手としてリテラシーが上がった心地になり、いい気分に浸ることも。あいたた。
同時に作家や作品が、ヒリヒリするテーマや好奇心を煽るキャプションとともに紹介され、「これは観に行かなくちゃ」と純粋な興味とともに、美的感度を試されたような、挑戦状を受け取ったような気になる。
実際、足を運んで呆然と、それらの熱量に浮かされて、動けなくなる作品にも出会ってきた。
けれど、そんな一期一会は、数えるくらいしかないわけで。
どうしても、美術館やアートフェスティバル(特に広域の)は、情報を見つけて足を運ぶ行為そのものの臨場感で、満足しがち。
現地で作品を受け取るころには、しばしば消耗しきってしまう。
せっかくお目当ての作品に辿り着いても「これなら、昼を食べたカフェで本を読んでいたほうがよかったな」とか思ってしまう。ひどい?
作品を前にするまでのプロセスで、磨耗してしまう感度は、わたしの持久力が足りないからで、作品そのものがどうというわけではないと思う。
もともと、大量の情報を一気に享受することに、向いていない自分を、認めなければならない。
拡散した情報──たとえば何階にも及ぶ展示や、町と町の間を行き来して鑑賞するアートフェスの作品などをいざ受け取らんとしても、わたしの集中力はもたない。
一つの作品が持つメッセージとか、覇気みたいなものを受け取るうちに、あっという間にうつわが一杯になり、「疲れた」とグッタリしてしまう。
こういう「疲労」も含めて鑑賞体験だと謳うこともある。さらには、集中力が散漫になり、情報が拡散されるフィールドだからこそ受け取れる艶とか闇もある。
けれど、いわゆる“食らった”体験は、小さなギャラリーや個人店、ミニシアターなどが多い。大きくて広い空間は、一つひとつを明確に把握しきれず、全体として「なんかすごかった」という間抜けな一言に集約してしまいがち。言語化に至るまでの体力が、鑑賞中に削られてしまうのだ。
劇場は、また別だ。演劇を含む舞台芸術の場合、観客は動けない。そして、その場で受け取る作品は一つだけ。映画もまた同様。
本屋も、平気だ。たしかに疲れるけれど、情報の一つずつに集中する時間は個人に任されている。さらに、本という媒体ひとつひとつが、見過ごそうと思えば見過ごせるくらい小さく、気になる作品を自分で選ぶことができるからかもしれない。
キュレーションされる展示が苦手なのだろうか。一つの作家を取り扱う展示のほうが、何に集中すべきか明白だ。作家の人生に、まずは五感を傾ければよい。
演劇も本も、対象となる作品と主体が明確かつ一つだけだから、没入できるということか。
いくつかの作家や作品を集めて大々的に魅せるイベントものは、どうしても上っ面をなぞるだけという感覚から抜け出せない(キュレーターや展示コンセプトへのクレームではなく、わたしの受け取り方の話)。
それでも、ハッとする体験を求めて展示やイベントには足を運んでしまう。
グッタリして、展示の半分も見れなかったとしても、なにかしら“食らいたい”。
混乱と摩耗ゆえのグッタリも、身体が凍る衝撃も、自分がなにかをつくるためのガソリンになるからかもしれない。
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