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暮らしの中にある、働くこと

暮らしと働く。プライベートと仕事をきっぱりと分けたい人もいれば、ごっちゃになっていてもいいという人もいる。私は、どちらでもなくて、「暮らしの中に、食べることや遊ぶことと同じように働くことが入っている」というニュアンスを持っている気がする。

今やっている仕事が嫌だ、憂鬱だと思うことは、ありがたいことに全くない。だからこそ、プライベートと仕事をはっきりと分けなくても、仕事を頑張りたいときは頑張るし、遊びたいときは全力で遊ぶ、というのを明確な切り替えがなくともそのときの気分で決めていることが多い。

けれど、別に仕事だけに生きる!みたいなモチベーションで暮らしているわけではない。昼夜年中、仕事に夢中、という温度感はないので、ゆるっと自分の好きな仕事だけして、必要以上に稼げなくても、自分が豊かに暮らせるだけの収入があればいいという心持ちだ。だからプライベートの時間を削ってまで仕事に全力になる、というのもなんか違う。

だから私は「暮らし」の中の、遊ぶこと、食べること、誰かと会うこと、という日々の営みの中の、同じ立ち位置に「働くこと」がある、という捉え方だ。いい意味で割り切っているというか。働くことは、特別に嫌なことでも一番に優先したいことでもなくて。単なる日々の営みの一部分である、というような。土日必ず休むということもないし、毎日8時間働くということもない。土日に仕事をすることもあるし、毎日6時間くらいしか働かないこともある。

そんなそれぞれの境界線が曖昧な暮らしの中にいる。食べることと遊ぶことに明確なラインがないように、遊ぶことと働くことも曖昧な日々の延長で繋がっている。こうやって、グラデーションの中で暮らせるためには、自分がどんな働き方が心地いいかをしっかりと把握して、それに向かっていかないといけない。模索をしなければいけない、ということだ。

私はというと、最近になってようやく、心地いい働き方というものが分かってきて、自分自身でコントロールをすることができるようになったきた。仕事が少ないかもと思ったら、気になるメディアに応募をしたり、逆に仕事がキャパ以上にあるかもと思ったら、少し仕事を少なくしてもらったり。そうやって自分の心の豊かさを最優先事項に、その均衡が保てるように、暮らしの中に働くことを馴染ませているような。

働く時間帯だってそうだ。私は基本的に晴れた日には、仕事中だとしても2時間ほど散歩の時間を必ず確保する。その散歩の途中でカフェに行ったり本を読んだりしていると、2時間じゃ収まらないときもある。その場合は、罪悪感も自己嫌悪もなく、ただ延長して、そのときにしたいことをする。逆に雨の日には、外に出られないから1日中、部屋にこもって仕事ばかりしている。天気によって働くの分量を変える、という気まぐれの中で仕事をしているのだ。

でも、暮らしのすべてがそうやって気まぐれの中で進んでいくと思う。お腹がすいたらそのときに食べたいものを食べるように。天気がいいから、出かけよう、というように。仕事をしたいときには集中して、したくないときはしない。そんな気まぐれの中で、あくまで「暮らし」の循環の中で「働くこと」を捉えていたい。

このnoteでも書いたのだけど、

日々の暮らしを豊かにするかどうかは、私自身で決めること。それと同じように、働き方も私自身でカスタマイズしながら選択すること。そうやって、暮らしも働くことも、区別をせずに、わがままだとしても「私」を主語に生きていきたい。暮らしの中にある、働くということ。

気負いもせず、だからといってその時間をないがしろにせず。フラットな状態で、いつだって働いたり遊んだりしたい。日常と仕事のグラデーションの暮らし。これからも、そんな曖昧で私にしか分からない判断基準で、最適解を見つけていきたい。

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