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見上げればいつも四角い青空#20 シルクロードという魅惑の言葉

初めてシルクロードという言葉を目にしたのは、小学校に上がる前ぐらいで、遠い異国の生活に魅せられたのを憶えている。

先日、義父の『週刊シルクロード紀行』を引き継いだ。
週刊朝日百科として50週にわたって発行され、たくさんの写真で丁寧に解説される豪華な冊子の1冊目を手にすると、そこには以前魅了されたシルクロードの世界があった。

ドイツ人地理学者リヒトホーフェンが名付けたとされるシルクロードだが、『リヒトホーフェンその人もいわゆるシルクロードと注釈していることからするとどうもその前から使われていた言語のようだ』と陳舜臣氏は寄稿する。

ボクにとっては、東西の商人が駱駝の隊列を組んで、点在するオアシスを結ぶように行き交う姿、平山郁夫の「流砂浄土変」に描かれるキャラバンがそのイメージだ。

もちろんシルクロードはそもそも一本の道ではない。
広大なユーラシア大陸に、幾千年の間、幾千幾万という人々が行き交い、轍のように刻まれていった道は、ユーラシアの歴史そのものであり、文明でもある。
洋の東西で同時期に同じような文明が形成されたのはシルクロードがあってこそだということに異を唱える人は少ないだろう。

司馬遼太郎氏は、文明とは、だれもが参加できる普遍的なものであり、合理的なものであり、機能的なものであると定義した。ボクは、使い方が分からなくても、誰でも利用できるものということだと理解している。
そして、シルクロードは、まさに、司馬氏が文明の対比として、不合理で、特定の集団においてのみ通用する特殊なものだとした文化を異にするたくさんの人々が、それらを手放す必要もなく、共同で利用してきた広大なインフラシステムとも言える。

ボクは想像する。

いつの日か中国を出発し、その道を通ってイタリアに到達できたら、幾万の人々の記憶を追体験できるのだろうか、と。
想像するだけでもワクワクしてくる、そんな魅力を持った道はそうそうない。

最後まで読んでいただきありがとうございます。同じようでいて同じではない日々の生活の中で、感じたことや考えたことをスケッチしています。よかったらまた立ち寄ってください。

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