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ありのまま

ありのままに、素直に自然体で、等身大でいなさい。とお祈りをしているときに、神様から言われた感じがしました。

「あなたの悪い癖は、優等生ぶるところだ。」

その端的な痛烈な一言は、すごくショックで、でも多分おそらく、いや、間違いなく本当にそうだなぁと思います!

なんでも見通せる神様の前では、偽ることができないのに、多分少しでも良く見せたくなってしまうところが昔からあって、その「優等生になりきれないけれど優等生ぶる」というところを鋭く指摘されてしまった…と恥ずかしい気持ちになりました。

悔い改めて直さなければいけない、私の悪い癖であり、罪であることを自覚しました。


そして、聖書の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」の聖句を思い出しました。

『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』


知らず知らずのうちに、ファリサイ派の人のようになってしまっていないか、

できていない所を認めること、そしてありのままの自分を認めて、常に成長しようと努力しもがくこと、を忘れないようにしたい、と思いました。

神様の前で偽ることなく、ありのままで正直にいること、そして素直に出来ていないところを認め、自分が罪深い人間であるということを認めることが、まず何よりも大切だなぁと思いました。

そこから一歩ずつ成長できるように努力していこうと思います(^-^)


そして、インスタグラムでも良く見せようとしていないか、人からの評価やいいねの数を気にしていないかを指摘されたような気がしました。

本質からズレないように、行う意味を見失わないように、人に影響されないように、神様だけを見ていなければ、世の中の海に溺れてしまう。


「嘘が混じっているもの」にとても違和感を感じます。自分が撮った写真じゃなかったり、本当の日常ではなく、わざわざインスタ映えするような所へ行って撮った写真ばかりだったり。そのような写真を見ても光を感じません。

丁寧に一生懸命生けているなぁと感じる写真かどうか、生命力に溢れている、力に満ちている、希望と喜びに満ちていると感じるもの、それはやはり聖霊を感じるかどうかだと思うのですが、見分ける力をつけたいな、と思います。






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