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子どもは遊ぶ。それが子ども。

主夫になってからの大きな変化の一つは平日の日中、自分以外の人たちが何をしているのかをよく観察できる時間が取れるようになったことです。

マンションの目の前にある大きな公園。朝、夕の愛犬の散歩、食料の買い出しなどでその中を横切るたび、ジョギングしている女性、ベンチに座って懐メロを歌っているおじいさん、談話中のお母さん、芝生の真ん中でサッカーやキャッチボールをしている男の子、バスケットボールを片手に談笑している部活中らしき高校生、といろんな人が目に飛び込んできます。

その中でも特に驚いたのは子どもたちの姿でした。

園児、小学生、中学生、男女を問わず、かけっこ、鬼ごっこ、砂遊び、遊具、鉄棒。。。実にたくさんの子どもたちが夢中で遊んでいます。楽しそうなその姿は毎日、公園の時計の針が18時近くになってもやむことがありません。

前職が大手学習塾の広報だったこともあり、16時過ぎになると次々と教室に通ってくる子どもたちを当たり前のように見てきました。ですから日がとっぷりと暮れるまで遊び続ける姿が僕にはとても新鮮でした。

こんなに子どもって遊べるんだ。

何よりも「子ども」であるからこそこんなにも楽しく遊ぶことができる。子どもにとって一日の大半を使って心の底から「遊ぶ」ことはむしろ小手先の勉強などよりも遥かに大切なんじゃないかと考えるようになったのです。

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さて、今年の4月に岐阜市に公立中学校としては初の不登校児特例校として開校した草潤中学校の開校除幕式・内覧会で、京都大学総合博物館准教授、塩瀬隆之氏が話されたスピーチが紹介されていました。

この中で塩瀬氏は

義務教育の「義務」とは子どもが選んだ学びの環境を提供する大人の「義務」であり子どもは「学習権」という権利を持っている。そして「子どもたちはいつ、どこで、だれと、なにを学びたいのか、そのすべてを選んでもいいはず」とおっしゃっています。

けれどもそれは裏を返せば、子どもたちが「自分で選べていない」現実がある、ということ。

今、教育の現場ではアクティブラーニングに始まり、GIGAスクール、プログラミング、探求型の学習、小学校低学年からの英語、STEAM教育など多種多様な学びの方法や選択肢であふれかえっています。

それらを否定するつもりはないのですが、テクノロジーの発達はあるにせよ昔も今も、人ができる基本的なことはそんなに変わってはいないとも思うのです。それなのに、世の中の変化や要求に合わせてあれも、これもと詰め込んでみたところで果たしてそれが子どもにとっての「最適解」となりうるのでしょうか。

かけっこや鬼ごっこ、物の取り合い、友達とのたわいのないおしゃべり、漫画やゲームの貸し借り…それが親から見て「遊び」や「いたずら」であったとしても、子どもにとっては生まれて初めての「学び」であるかもしれません。

日々の「遊び」の中で自分を知り、他人を知り、好きなものを知り、作る喜びを知り、楽しさや悔しさや悲しさを受け取り、その中から本当に自分に必要なものを選んでいく。子どもの頃のそういう体験が乏しければ「いつ、どこで、だれと、なにを学びたいのか、そのすべてを選んでもいいはず」とも思えないでしょう。だから、いつまでも

子どもは遊ぶ。それが子ども。

であってほしいと思うのです。この先、うまく遊べない子が増えないようにしてあげることは学ぶための環境を整えることと同じくらい大切な大人の「義務」なのではないでしょうか。

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子どもの頃、家の本棚のいつも読んでいる漫画や童話とは違う場所の奥に古ぼけた国語辞典を見つけました。触ってはいけないものだろうかとどきどきしながらページを繰っていったその奥付に、母の名前と日付が書かれていました。それは母が娘時代に使っていた辞典でした。母の使っていた辞典をこっそり読むのが嬉しくて、前より国語が好きになった覚えがあります。取るに足らないことですが、今、物書きをしている自分の支えにもなっているかもしれませんね。

knot改


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