淋しくなったらここに来る

前にここに来たのはいつだろう、と開いてみたら昨年の9月だった。

ずいぶんと間があいた。ここを離れて「はてな」でブログをたまに書いたりしていた。でも、なんか違う気がし始めている。スターというシステム?が多少めんどくさい。でもどこでも似通ったものだろう。ブログでさえ気を使うのか?と思ったりもする。公開に設定しているからには読者がいる。誰かに読んでもらうことを想定し、その数が多いほうが良いと考えるか、あまり気にしないかは人それぞれ。

 やはり自由がいいな、と思う。好き勝手に思うまま書いて書きっぱなしにできればいいな。素直に正直に、好きな道をきのむくまま歩くように。

 それで前にいつ書いたのかと読み返してみたら去年の9月で、そう、その日もさびしい土曜日の夜だった。淋しくなったらここに来るのね、わたしは。もちろん、9月から今日まで淋しい日はたくさんあった。スマホを開けてぼんやりしていたこともたくさんあった。詩を書くことも稀にあった。淋しさを紛らわす手立てをいくつか身につけて人は(わたしは)年老いていく。書かないで考え事をすることも多かった。心細さではなく沈鬱感に支配されることが多く、その理由を考えていた。無職になり別居してあれほどにほしかった自由がまるごと手に入った。恋人もいる。不足は何もないのではないか、と思う。

 だけど、とまた思う。わたしに足りないものは倫理なのだった。規範から逸脱している。やさしい家族がいて、それでも一人になりたいから一人暮らしで、さらに長年寄り添う人がいる。過不足なく穏やかに暮らしているように見えるわたしには欠けているものがあり、その業火の影が沈鬱感の理由なのではないか、そう思い至り、じぶんなりに理由をつけて納得しようと試みた。だからといってなんにも変わらない。変わらずにさびしい土曜日がありそのおかげでこうして何かを書けるじぶんを見つける。

 たぶんきっとnoteという場所があってよかった。「はてな」じゃなくてここがいいな。今は。ちょっと落ち着けるクッションをゲットした猫みたいに。

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