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哀しい感触

 その人がいなくなっても、その人を思い出させるものがあると知った。五感に、からだに染み込んでいるそれは、なかなか消えない。その人が去ってしまった後も。だけど、必ずしも美しく残るのではない。哀しい感触となってふとした瞬間に戻ってくる。

 夜、バイトから帰ってくると母と姉がパソコンの前に座っていた。画面には、子犬の画像が写し出されていた。ミニチュアダックスフンド、オス、四ヶ月、ワクチン二回済、里親募集中。里親を探している子犬のホームページだった。この子が可愛いあれがいいなどと言いながら、新たな子犬の写真が出る度二人は歓声を上げている。母の顔から絶えず笑みが零れている。こうやって子犬探しに夢中になることで、気が紛れるならいい。新しいもので古いものの代わりをする。よくあることだ。失恋の手っ取り早い癒し方が新たな恋を見付けることであるように。空白を埋めるには別のものを持ってくればいい。所詮ペットはペットに過ぎないのだからと誰かが言っていた。ペットはペットか。なんだかもっともらしくて嫌味な位だ。何年一緒に暮らしていても、また別のもので代わりができてしまう。死んでも代わりが見付かってしまう犬は可哀相だ。でも、そういう私も、新しい犬購入に賛成したのだからしようがない。


 学校から帰ってきて門を開ける。暗い庭は門灯でうっすら照らされている。雑然と並んだ鉢植え、伸びきった雑草、庭木の影。何かが足りない、気付くのは数秒後。いくら待っても出てこない。いくら待ってもリキは出てこない。そこにある筈のものがない空間。空白。私もいまだこの空白の埋め方を分からずにいる。
 「長毛か、短毛か、奈美はどっちがいい。」
 意見を求められても、私の答えは曖昧で。やっと出した答えは、
 「短毛で、茶色じゃなきゃ何でもいいよ。」
 本当はダックスフンドを飼うのは嫌だった。ダックスフンドはリキだけでいい。リキの代わりと言っても、まるっきりリキと同じ犬は嫌だった。そんなのあんまりだ。でも、何も言えない。一番リキを可愛がっていた母がそう決めたのなら。今度の犬だってきっと母が一番世話をするだろう。一番代わりを必要としているのは、母なのだから。
 不思議なのは、そんな母も姉もリキが死んだことについて話さない事だ。リキはいつも勝手口の土間で寝てたね、砂肝のジャーキーをねだって吠えてたね、雷と大雨が大嫌いで、怖がりだった。話すのは必ず生きていた頃の話。死ぬ直前や、死んだ時の話はしない。まして死んだ後の話はしない、決して。死んだその日に一度だけ母が言った「リキは天国へ行って、犬の王様の国に行って幸せに暮らすから大丈夫よ。」母なりに私を励まそうとして出た言葉なのだろうが、天国はともかく犬の王様の国ってなんだろうと苦笑いしたのを覚えている。実際は、リキは犬の王様の国にも天国にも行ってはいない。思い出の中に入ってしまったのだ。死んだ者は思い出の中でしか生きられない。家族の誰もが暗黙のうちにそれを分かっているようだった。上手に思い出にして、少しずつ忘れてゆく。ゆっくりと自然に、慣れてゆく。埋めてゆく。代わりを見付けるのも、話題にしないのもそのため。
 来週、ネットでみつけた新しい犬を見に行くと母は決めたらしい。私にも一緒に行こうと誘ってきた。少し考えてから、私も了解した。

 次の犬を受け入れようとしている一方で、私は家族に言えずにいる事があった。今晩も私が風呂に入っていると聞こえてきた。私は髪を洗っていた。シャワーの水音に遮られながらも、確かにそれが聴こえた。手を止めて、耳を澄ます。窓の外に意識を集中させる。外に置いてある物置の戸を、風が揺らす音。木の枝が掠れる音。
 「風の音」
 呟いて、髪を濯ぎ始める。それでもまた聴こえる。風の音に混じり、微かに。聴こえるか聴こえないかの低い声。思わずまた手を止めて、窓を見る。窓はぴったり閉じられ、擦りガラスの向こうは真っ暗だ。きっと暗がりで哭いているんだ。暗がりで一人でいるのをあれほど怖がっていたもの。窓を開ければ、すぐどこかから出てくるだろう。黒い目は濡れているだろう。まだそこにいる。暗がりでずっと哭いてる。何故あんな風に哭くようになってしまったんだろう。もう家の中に入れてもらえないから、大好きな勝手口の土間に上げてもらえないからか。名前を呼びたかった、声に出してしっかりと。だけどできない。リキって呼べない。そこにいると分かっていても。
 そして私はシャワーの栓を思いっきり全開に捻って、髪を濯ぎ続けた。


 犬が死んでこれなのだから、人が死んだらどうなんだろう。考えたくないけど考えてしまう。風渡が死んでしまったら私はどうするんだろうか、失恋した時みたいにまた別の人を探すのだろうか、じゃあ私が死んだら風渡はどう思うんだろう、そこまで考えていつも行き詰まる。少なからず分かるのは、私が死んでしまったら風渡が全部知らずに終わると言う事。まだ風渡に伝えられずにいる事が沢山残っていた。だから私は今死ねない。死ねないって思えるのは幸せだ。私はまだ生きる、生きてるんだって思える。
 風渡の隣に居ても、そんな事ばかり考えてた。


 いつもの仲間と来たドライブ。『夏だから海』の方程式の下、車は海岸線を走り、いつしか海水浴場で止まった。海を見たら水に入りたくなるのが当然のような夏日だった。空は青く、水面は光り、砂浜には家族連れがビニールシートを広げてお弁当を食べたり、バーベキューをしている。フリルの水着の子供が波を怖がり、お父さんが手招きして笑っている。沖の方にビーチボールが一つ、誰が忘れていったのか、浮いたり沈んだり。はりきって波に駆け込んで行った仲間たちは、膝まで水に浸かってふざけている。
 海に入ってくれば、と私から言った。これくらいしか話題が思い浮かばない。あまりに陽射しが眩しすぎる。なにもかも光の下に剥ぎとられていくような気がした。この格好だからね、Tシャツとジーンズを指して風渡が応えた。大丈夫だよ入ってきなよ、ふざけたつもりで言っても中途半端な笑みが私の口の端に浮かんだだけだった。湿った砂の、波打ち際の近くまで行きながら水に入ることも出来ず、二人して手持ち無沙汰のまま沖の方を眺めていた。
 太陽で波間がくっきりと光っていた。陽射しが肌に塗り込められ、熱い潮風が頬に当たって、足の下で湿った砂が暖まっていく。横には風渡がいた。自然と喉がきゅっと絞まって、唾を飲み込んだ。怖かった。この瞬間が欲しくてたまらなくて。
 少し咳き込んでから、学校が終わってから何してたの、風渡が訊いてきた。ひたすらバイトだよ、私は応える。あんまり特別なことはなかったよ、言い掛ける声が小さくなった。こんな炎天下でリキを思い出すのは不似合いな気がした。汗が額から顎へ滴った。ここで口を閉ざして微笑んで、純粋に風渡を思っていたらいい。私はここにいるのだから。
 沖にはビーチボールがまだ浮いていた。波に揺らされて、陸に近づいたり離れたりしながら、どんどん沖に流されていく。
波が引いてゆく度、削り取られてゆくのはなんだろう。砂に足がのめりこんでゆくようで。風渡の隣に立っているのに、彼に取り残されたようで。
 「この前ね、飼い犬が死んじゃったんだ」
 テレビで見たニュースを話すみたいに話していた。
 「そうなんだ」
 少し黙ってからポケットを探り、風渡は煙草を取り出す。何年生きてたの、どんな犬だったのと質問をたえずしながら、風渡の声はいつもと変わらない。静かな声が私に染みる。
 「淋しくて、でも母さんの方がもっと辛いだろうから、私ばかり悲しんでちゃいけないし」
 淋しい。悲しい。言葉を口から発するごとに、私から離れて消えてゆく。話す先から全て嘘になってゆく。私の心から離れてゆく。
 「でも、もう新しい犬を探してるんだ。前と同じダックスフンドだって。」
 そっかと相槌を打ち、風渡が煙草を捨てる。波打ち際の湿った砂に吸殻は落ち、しばらく燃えて、消えた。ごめんね、こんな暗い話をしてと謝って、風渡の夏休みの話を聞くべきだった。この太陽の下にリキを引きずり出すべきじゃなかった。
 「死んだときは泣いたな、俺も。」
 横で大きな溜め息が聞こえた。泣いたの、と聞き返す私も驚きを隠せなかった。風渡が泣く。想像できない。風渡の横顔をいくら見ても思い浮かばない。泣いたねと恥ずかしそうに笑って、風渡が話す散歩の思い出。散歩の紐を持っただけで尻尾振るような奴だった。聞きながら、私は風渡が今も泣いているような気がした。
 「でもやっぱり情は移るものだよ。いくら次の犬を飼うのに反対してても、いざ飼えば情が移る。」
 静かに言った。不思議にね、気持は移ってゆくもんだよ、止められない波みたいに。
 そうだね、相槌を返すしか私にはできなかった。風渡の静かな声に、私の唇は硬く結ばれた。悲しかった。私が内側から溶けていくみたいだった。
 今、私は風渡がとても好きだった。本当に好きだった。でも流れてしまうだろう流されてしまうだろう。流れやすい水をどうやって捕らえておくことができる。みんな流れてしまえ、澱むくらいなら。
 「風渡」
 またライターを出して、風渡が煙草をくわえる。
 あなたが死ぬか、私が死ぬかどちらか。死んでよ、言えずにまた唇を噛みしめる。首を締めて、両手で思いっきり締め上げて、砂の上に倒し馬乗りになって、冷たい海水に濡れる。あなたの低い呻き。あなたが死んだらきっとその声を聴くだろう、町を歩いていてもご飯を食べていても海をみても。
 「ん、どうしたの」
 黙り込む私を、風渡が促す。私は首を横に振った。
 どうしたら伝えられるだろう、こんな気持を。私は死ぬだろう、きっとこのまま何も伝えられずに。いつだって、伝えられることなど一つもないのだ。そうやって私は生き続け、彼の知らないところで死んでゆく。ひっそりと。
 「ありがとう、風渡」
 私に言えるのはこれだけだった。

 子犬を初めて見たとき、もうそれだけで良いと思った。落ち着きなく歩き回る姿を見てるだけで楽しかった。知らぬ間に手が伸びて子犬の背を撫でていた。子犬の名前を何にするかが、食卓の一番の話題になった。誰もが子犬を抱きたがり、争うように可愛がった。母が考えたチャタと言う名に決まった頃には、うちの家で犬と言えばチャタのことだった。
 ある時、母が線香を焚いた。リキの写真の前で。
 「リキ、今までありがとうね。お前がいなくなって淋しいのは耐えられないから、チャタに来てもらったんだよ。だからリキは天国に安心して行っていいよ。」
 そして母は言った、匂いがする、リキが死んだときに吐いた黄色い汁の匂いがすると。私にはその匂いはわからなかった。線香を焚いたのは、供養のためなのか匂いをかき消すためなのか、私にはわからなかった。
 その夜、私は風呂に入った。髪を洗うために、洗面器にお湯を入れた。そして耳を澄ました。
 「リキ」
 リキ、出ておいて、もう怖がらないから、お前に会いたい、私はお前に会いたい、泣かないで、私はお前を忘れてないよ、だから出てきて。
 立ち上がって。迷わず窓を開けた。風も吹いていなかった。暗闇に風呂場の明かりがまっすぐ伸びていた。耳を澄ます。が、聴こえなかった。どうやってもリキの声は聞こえなかった。リキは出てこない。暗がりにもいない。
 すぐに窓を閉める。ずっと開けていられなかった。寒気がして、人の声が聞きたくて、一人で歌い出す。小さな子が怖いときにするように、間抜けな調子で。勢いまかせに髪を洗いながら、ずっと歌い続けた。こんな歌こんな歌と思いながら、早くお風呂から出たくてたまらなかった。
 我慢できなくて飛び出た脱衣所。すぐ携帯電話を手に取る。耳に電話を当てながら、濡れた髪から垂れる滴を拭く。数回の呼び出し音が鬱陶しく長い。はいもしもし、いつもの声が出て、どうしたのといつものように聞くので、笑いながら泣きそうになった。それでも耐え切れなくて、声を出して笑った。お腹が痛いくらい、笑った。怪訝そうにまたどうしたのと聞くから、好きだよと言った。風渡のこと好きだよ。受話器の向こうの沈黙。私はそれを確認してすぐ電話を切った。脱衣所に座り込んで、ぼんやり携帯電話を見つめた。これでもう声は聞こえない。風渡の声も。自分が泣きたいのか笑いたいのかわからなかった。今聞いた風渡の声をひたすら心の中で何度も再現しようとした。心に染み込ませるために。


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