見出し画像

「5年後のライバルは、先生たちです。」


別に毎日note書こうとかそういう無謀をするつもりではなく、Twitterだとちょっと長いかなというものはこっちに書いておくかとかいう気まぐれで書く也。

ってか「来年のことを言うと鬼が嗤う」のなんでだろう。あれか、石田三成が切腹前だというのに柿は体に良くないから食べないって断ったっていう逸話と似たようなことだろうか。人食い鬼に今まさに喰われんとしているというのに、キミ来年の話しちゃう?みたいな。

本題。

中学校の数学の定期テストで点が取れない子の傾向として、「ドリルや問題集を解くときに数学の計算式を書かない」というのがある。暗算もしくはチョチョイとひっ算をした跡のような数字が、問題の周りに薄~い文字でふよふよと浮遊していて、問題の下のスペースにポツンと答えらしきものだけが書いてある。

テレビアニメ版エヴァンゲリオンの最終回か。

ひっ算が残っていればまだいい方で、ご丁寧にその計算メモを消しゴムで消して「答え」のみがドン!と鎮座して仕舞、ということも多い。そういう時に限って計算ミスをしていたりして、「これはどうやって解いたのかな?」と本人に聞いてみても「え?」みたいな顔をされたりするんだなこれが(笑)。

小学校では、テスト問題の中に「式まで書け」と書いていない場合は、答えだけでもまあ丸がもらえるので、その癖がついているのかもしれない。

で、何度も何度もしっ…つこく注意するんだけれど(笑)、まあ習慣づいたことというのはなかなか修正が効かない。

で、これまで生徒に途中式を書く理由として説明してきたのは以下のみっつだった。

1)途中式がないと指導するポイントが掴めず、せっかく塾の授業を受けに来てくれているのに時間を無駄にしてしまう。
:どこまで分かっていてどこで躓いているのか、先生が見ても分からない。で、ただの計算ミスだったのに基本から教えてしまう。その逆も然り。

2)テスト前に「自分がまだできない問題を復習しよう」と思っても、その「できている範囲」「できない範囲」がどこなのか分からない。
:自分で解いたんだから思い出せるだろーと思っている子が多い。なぜかそういう記憶力を信じる力が総じて強い。何柱なんだ、何の呼吸なんだそれは。

3)中学では、式があっていれば部分点が(そこそこ)もらえる。
:1問10点の問題で「答えは計算ミスで間違っているけれど、式(考え方)が合っていたので8点」というときがある。逆に、「答えがあっているが式(考え方)が間違っていても0点にしかならない」こともある。


人間というのは目先の利益に弱い。遠いければ鈍い。大人が言う「将来役に立つ」という言葉は、それが揺るぎない真実であろうと、子供には響かない。大人ご本人が子供だったときに、その言葉が自分にちっとも響かなかったのを忘れてしまうのだろうか?そもそも14年そこそこしか生きていない子供が、10年後20年後それ以上の未来を想定できるはずがない。だから、モチベーションを上げるには目先の「テスト」が良いにんじんになる。

しかし、私が「最近子供たちに響いているな~」と実感してる入るのは、「テスト」よりもちょっと先の話だ。

以前、「『なんで勉強しなきゃいけないの?』と子供が問うとき、子供は本気で答えが知りたくて聞いているのではない、マジレスすんな」、というツイートをした。

※鬼滅は読みました。

まあ本気で「なぜ勉強しなきゃいけないの」って聞かれたとしてもね、答えなんていくらでもあるわけです。でも子供に届かなきゃ意味がないヨネ!「狩りを知らないライオンがサバンナで生き残れると思う?」っていうのは正しいしカッコイイけど子供に刺さるか微妙。

そして聞かれてなくても「勉強しなきゃいけないよ」「勉強しておいた方がいいよ」、と言わねばならぬときもある。それが教師講師の宿命である。

で、その時考えたコピー(於:もしも私が広告を作るなら妄想)が、


「5年後のライバルは、先生たちです。」

というものだ。腕組みをて笑顔を決めている老若男女の塾講師たちが見える、見えるぞ。※©ワシなんで使いたい人は必ず連絡してください。

例えば君が高校を卒業して就職活動をするとき、君の就きたい仕事の募集が1名のみだったとする。しかし、そこに先生(私)も応募してきて、君と先生はイスを取り合うライバルになる。

私 「勝てる?」
生徒「…勝てない!」

5年後というこの「次の定期テスト人参」ほどあざとい近さでもなく「将来役に立つといわれるときの将来」ほど遠くもない未来という距離感と、目の前の大人(ただし学校の先生ほどではなくて、趣味なんかの話も合う仲のy良い第三の大人)というリアルさが良かったようだ。わりと響いていると思う。

彼らが漠然と「先生には敵わない」と思うのはなぜか。それは、「物知りだし、分かりやすく説明してくれる」(と思っていてくれる)からではなかろうか、と考えた。そうしてたどり着いた「途中式書け書け説得法」を以下に書いておく。アップデートする可能性は大いにある。

いまのところ話した数人の子供には響いている様子。

勉強の目的は2種類あるんだ。
知らなきゃいけない知識を知っておくことと、何かを説明することができるようになること。


知らなきゃいけない知識を知らないと、昔の人がすでに解明したことで悩んだり、先人の間違いをまた繰り返したり、詐欺にあったりする。
歴史で言えば、稲作が発達し定住するようになって人は豊かになったのに、肉が食べたいからもう一度狩猟民族に戻ろう!と言うようなもので、それはちょっと苦労しそうだよね(注:歴史が好きな生徒への解説例)。

人にきちんと説明できないと、仕事で新しいものを作り出すしたり、人に商品を売ったりすることができないね。高校生ができるアルバイトの多くはマニュアルがきっちりきまっているんだけど、それは自分で説明する必要がないようになっているからなんだ。何かを全部イチからお客さんに説明するのは高校生にはまだ少し難しいかもしれないからね。

そこで、国語はもちろん、算数・数学でも人に説明する方法を学ぶんだよ。小学生の算数では、説明の時に便利な「足す・引く・掛ける・割る」や「三角形・四角形・円」、「グラフの書き方」について学ぶ。中学生になると、小学生で習った言葉を使ってもう説明を組み立てる練習をしてるんだ。高校生になると、数学のテストには3~5問くらいしか問題が出なくて、「答えをどうやって出したらよいか説明しなさい」という問題になるんだよ。
そして大学では、すべての科目の問題が「答えが決まっていないことについて、自分の答えは何か、それはどうしてそういう答えになったのか説明しなさい」になっていく。

高校や大学で、いきなり紙いっぱいに説明を書けと言われても多分できないね。だから今は、やり方も答えも分かっているものの真似をして、説明をする型を身に着ける練習をしているところなんだ(もちろん、解答と違うやり方で答えを出してもOK。その場合もきちんと先生に説明できたらちゃんと丸がもらえるんだよ)。

数学の途中式というのは、言葉を使わないで説明できるから、実はとっても楽なんだよ。しかも数学の記号は世界で通じるんだよ。中学の学習範囲でも、ときどき言葉を使う必要のある問題が出てくるんだけど、今は言葉はいらない範囲だから、数式で説明を済ませるのを練習しようね。


数学では「考え方を学ぶ」というけれど、実は私にはいまいちピンときていなかった。大学くらいになるとそういう側面が強いのかもしれないんだけど、結局中学校のテストって解法を覚えてて時間内にペンを走らせ切れるか、みたいになっちゃってるじゃん。みたいな。

一方「説明する力」と言ってみると、本で見聞きした言葉で文章を紡ぐような感覚で、文章を書くのが好きな私にはなんとなくしっくりきたんだと思う。

自己満かもしれん。

寝よう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?