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人生で忌野清志郎とすれ違う

最近出た、清志郎の名言集を読んだ。

発売されてしばらく経ってからの読了となったのは、タイトルの酷さのせいだ。

でも、読んで良かった(というのは、タイトルの意味を再発見したのではなく、タイトルはやっぱりひどいのだけれど、それはさておき内容は良いという意味)。

と言うわけで、以下、自分の気持ちを確認・保存したいがためにつらつらと書く。

たった一音の記憶

生前の忌野清志郎に会えたことは、実は1回しかない。

彼が1度目の癌を克服した「完全復活祭」の後、確か高田馬場で、ファンクラブ(正式には「忌野清志郎ふぁんくらぶっ」)会員限定の、小さなコンサートが開かれた。

朝、いそいそと鈍行に乗って栃木から出てきて、案の定早すぎる時間に着いて、めちゃくちゃ暑い中をひたすら並んでいた覚えがある。

並びながら、列の道の途中に居酒屋のゴミが散乱していたので他のファンの人と拾ったり、常軌を逸脱したファンの方からやや怖い話を聞いたりした。

だらだら並んだ割に、コンサートは会場のかなり後ろの方で立ち見だったので当時は大分がっかりしたが、武道館やアリーナに比べれば考えられない近さだったと思う。

なんせライブというものが人生で初めてで、有難味が全然分かっていなかった。

しかし、人生で初めてのライブが、清志郎をこの距離で…というのは、改めて贅沢だったとしみじみ思う。

(昨年のトリビュートライブのチケットですら、古参で頼りになるファン仲間たちの誰も手に入れられなかったことを思うと、このファンクラブ限定コンサートの当選は真実ラッキーだったとしか言いようがない。) 

開場。MCが清志郎の入場を盛り上げようとシャウトしていたのに、清志郎は「そういうのされると、出て来にくいんだよね…(笑)」みたいなことを言いながら、ちょっとタイミングをずらしてシレっと登場した。

清志郎は、確かリカちゃん人形ぐらいの大きさには見えていたと思う。いや、その一回りは小さかったか。

赤いパンツを履いていて、誰かが「パンツ似合ってるよー!」と叫ぶと、「近頃はズボンをパンツっていうんだよね。俺の世代からするとびっくりしちゃうんだけどさ」って、雑談からめっちゃくちゃいい声。

うつ病でお金もなくて、RCサクセションのベスト盤1枚と当時最新作の「忌野清志郎 入門編」をひたすらヘビロテするしかなかった田舎の若者には、清志郎がこんな声でこんな風にしゃべるとは想像もつかなかったのである!

ゲームは持ってないけどそのゲームの攻略本を熟読してプレイ方法をイメージトレーニングする小学生の如く、当時私は「地球音楽ライブラリー」という本を読み込み、次はどのCDを買うべきかと日々想像と妄想に精を出していた。

清志郎が「入門編」の最初の曲「誇り高く生きよう」の出だしをアコギで弾いた。歌詞はもうとうに私の頭の中に入っている。

わけもなく涙ぐむのは君のこと思ってるから 悲しい涙じゃない、あったかい気持ち

その曲を知っているというのは、安心感がある。それなのに、だ。清志郎の「わぁー」という出だしの一音を聞いたその瞬間、私の体内を何かが走った。

電流とも振動とも言い難い、矢のような蛇のような、速くて幾分か長さのあるものが、私の両足の裏から頭の先までを真っすぐに通って貫いていき、そのまま雲の上まで突き抜けていった。

プロのスポーツ選手が極めて集中したときに感じるという、そしてまた、事故に遭った人がその瞬間覚えるという、あまりにもスローで長い一瞬だった。

清志郎の「わぁー」の一声が、私の心臓を止めてしまったかに思えた。

…というようなことは清志郎はもちろんつゆ知らず、突然歌うのを止め、「…ごめん、ちょっと変だったからもう1回やっていい?」と笑った。

その後のことはよく覚えていない。うつの酷かった間のことは覚えていないことが多いので、むしろこの出来事をこれだけ明瞭に覚えているのがすごいのかもしれない。

それから数日後、清志郎の癌が転移していたというニュースを聞いた。

mixiで誰かが「(あのファンクラブのコンサートで、清志郎は)腰が痛いと珍しく弱音を吐いていたね…」と書いていたように思う。

(その後、私はおこがましくも、中目黒で「千羽鶴を折ってファンクラブの運営事務局に送り付ける」イベントを主催するなどした。50人前後が参加してくれたように覚えている。その時の仲間は…いまでも大切な大切な仲間!)

翌年の「忌野清志郎 青山ロックン・ロール・ショー」と銘打たれた青山葬儀場でのお葬式…今でいうお別れ会みたいなものにも行った。

この日もとても暑かった。並んでいる最中、いまファンの列は〇〇まで伸びているらしい…という話を聞いたが、土地勘がなく何も分からないまま、4時間並んだ。

葬儀場の近くまで来たとき、清志郎の歌声が聞こえた。RCサクセション時代の「自由」という曲だった。

汚ねえこの世界で一番キレイなもの それは俺の自由、自由、自由…

真空パックされた漬物の袋にハサミを入れたときの様に、私の眼から突然ざっぱんと水があふれ出た。涙だ。

なぜか「私も、これから、自由に生きよう」と思った。あの天井を突き抜ける「わぁ」を思い出すだけで、私はきっと強くなれると思った。

再び清志郎とすれ違う

清志郎が死んで、誰かが清志郎を語る本がたくさん出た。

始めこそ懸命に追いかけていたものの、それらは私にとって空虚で退屈だということに気付いた。

その中でも太田光さんの「ラストデイズ 忌野清志郎 太田光と巡るCOVERSの日々」はとても良かった。

よくある「編年体で語られた、清志郎像の変遷」ではなく、研究者のような誠実なまなざしをもって、太田さんは清志郎を追求してくれている。

以下の二つも素晴らしかった。

あとの本は、…。空腹を紛らわせるためにがむしゃらに水を飲むのに似ていた。

悲しいかなやはり、清志郎の言葉には敵わない。清志郎本人による「エリーゼのために」「瀕死の双六問屋」「生卵」「ロックで独立する方法」…

そうそう、当時偶然「不確かなメロディー」のレンタル落ちビデオをもらって、しかも1度しか見られていないのだけれど、もちろん手放す気になれない(誰かダビングして)。

それで、冒頭の名言集「使ってはいけない言葉」も、しばらくは買う気になれなかった。

清志郎の言葉は、いつも肯定的で、強く、太く、重厚だ。それなのに、なぜにこのタイトルにしたし!!(と、amazonのレビューでも言っている人がいたので、私の思い過ごしではないと安堵。)

そうだ、使ってはいけない言葉というと、太田光さんとのエピソードが浮かぶ。

太田さんはかつて雑誌連載で「(政治になんか何も期待できないので、)選挙なんか行かなくていい」と書いて、清志郎に呼び出され叱られたことがある。「君みたいな影響力のある人が、そんなことを言ってはダメだ」と。

太田さんもすぐには引かなくて、「政治には期待してないけど清志郎さんには期待してる」などと謎の無茶を言って食い下がった。でもそれ以来、太田さんは必ず選挙に行くようになったという。

名言集のタイトルは、この深い愛の込められたエピソードからかと思ったら、この名言は本の中に採用されていない。なんだそら!

でも、久しぶりの清志郎の言葉は、やっぱりどれも眩しかった。虚勢を張って無理に逆張りしたような言葉がない、でもどれにも胸を射るような鋭さがある。

そして、本当に偶然だけれど、今の私をそっと導くような言葉がいくつもあった。

清志郎がいたから、歩いてこられた。

でも、清志郎がいなくなってしまったからこそ、私は表現することに執着できているのかもしれない。清志郎が生きていれば、彼が彼の素敵な言葉で全て代弁してくれたに違いない。それで私(たち)は満足してしまっていた気がするのだ。

「清志郎が生きていれば」と言いたい。お月様に向かって、「清志郎を返してください」と叫びたい。でも、清志郎が望んでいたことというのは、そういうことではないはずだ。

私の選んだ表現は、自分を曝け出すということなので、無知も感情も体験も(ある程度)丸出しで、それゆえに理解してもらえるところもあれば、馬鹿な奴だと笑われることもある(と思う)。

それは自己の切り売りなのか、いつか見向きもされなくなるのか、私の夢は無謀で無駄なのか、ダサいのか、つまらないのか…。誰も味方ではないような気のする夜もある。

そんなときのために、彼は珠玉の言葉をたくさん残してくれた。でも、そのエネルギーを消費するだけじゃダメなのだ。

自分の言葉で自分の夢を語れるようになれと、清志郎は言っている。いつも、どこででもそう言っていた。先日のフジロックの配信の中でも。

今日、10年経って今また、清志郎とすれ違った気がする。

いくら、そのいい歌で盛り上げたって ステージを降りたあと、ちがう言葉でしゃべってるんじゃ……ちょっと、なあ…そいつは、サギみてえだろ。

ああ、清志郎!
短いこの人生で一番大事なもの、それは私の自由!

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