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全ての教えは間違っているし、全て正しくもある。

全員間違っているし、全員正しくもある存在

非二元(ノンデュアリティ)の世界では、言葉そのものが持つ限界が常に問題として浮上します。なぜなら、言葉は対立や二元的な理解に基づいて構築されているからです。「私」と「あなた」、「ここ」と「あそこ」、「善」と「悪」などの概念は、すべて二元性に基づいています。しかし、非二元の真理とは、これらの二元性が幻想であるということです。

非二元を語るスピーカーたちは、真実を伝えようとしますが、彼らが使用するのはあくまで言葉であり、限界があります。このため、非二元スピーカーたちのメッセージは、同時に「間違っている」とも言えるのです。言葉を使って伝えようとする限り、そのメッセージは真実そのものを表現することができません。なぜなら、言葉で表現された瞬間に、それは既に二元的な枠組みの中に押し込まれてしまうからです。

しかし、同時に彼らは「正しい」とも言えます。というのも、言葉の限界を超えたところにある非二元の真理は、すべての人が本質的に既に知っているものであり、スピーカーたちはその真理に向かって人々を指し示しているからです。非二元の教えを理解しようとする際に重要なのは、スピーカーの言葉そのものではなく、その言葉が指し示す方向に注意を向けることです。

このパラドックスは、非二元の理解において非常に重要なポイントです。スピーカーが何を言っても、それは完全に「正しい」ものではなく、また完全に「間違っている」ものでもありません。彼らが伝えるメッセージは、あくまで指標として機能し、最終的にはその指し示す方向、つまり「今ここにある真理」に気づくことが求められています。

さらに、非二元スピーカーの間で語られる内容は、時に矛盾しているように見えることもあります。あるスピーカーは、「すべては幻想だ」と言うかもしれませんし、別のスピーカーは「この世界はただ起こっている」と表現するかもしれません。しかし、これらの言葉もまた、同じ指し示す対象に向かっているのです。そのため、どちらが「正しい」か「間違っている」かを判断すること自体が無意味です。むしろ、それらのメッセージが自分にどう響くか、どう感じるかが重要なのです。

ここで大切なのは、スピーカーたちが「間違っている」と感じることがあっても、それを受け入れる柔軟性です。すべてのスピーカーが表現する非二元の真理は、結局のところ同じものであり、ただその表現方法が異なるだけです。非二元の真理は、言葉や思考を超えたものであるため、各スピーカーのアプローチが異なるのは当然のことです。

では、なぜ非二元の教えにおいて「正しい」も「間違っている」も同時に存在するのでしょうか?それは、真理が本質的に対立するものではないからです。正しさと間違いは、あくまで二元的な視点から見たものに過ぎず、その視点自体が幻想です。非二元の視点から見ると、正解も不正解も存在しません。すべてはただ「あるがまま」に存在しているのです。

スピーカーたちが話す言葉をそのまま受け取るのではなく、その背景にある意図やエネルギーに注目することで、より深い理解が得られます。彼らが示そうとしているのは、すべての対立を超えた一つの真理です。言葉はその真理に触れるための手段であり、究極的には手段そのものに執着することなく、その真理に向かって進むことが求められます。

最後に、非二元スピーカーが何を伝えようとも、そのメッセージが完全に「正しい」ものではなく、また完全に「間違っている」ものでもないということを覚えておくことが大切です。スピーカーたちの役割は、言葉を超えた真理への扉を開くことであり、その扉を開けるかどうかは、最終的には受け取る側の選択に委ねられています。すべてのスピーカーが同じ真理に向かっている一方で、それをどう解釈し、どう取り入れるかは個々人の自由です。

非二元の教えを理解するためには、正解や間違いという二元的な枠組みを手放し、ただ「今ここ」にある真理に気づくことが必要です。

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