見出し画像

坂道を漕ぐ

※フィクションです!

 婚約を機に、自転車を買った。2万7千円の赤い自転車だ。私はこれからこの自転車に乗って、元カレの家をめぐる。
 私には3人の元カレがいる。橘さんと、弘平くんと、修ちゃん。なぜこんなことがしたいのか、自分でもよくわからない。復讐?マリッジブルー?それともただの好奇心だろうか。
 わからないけれど、とにかくやらないと気が収まらなくて、私はペダルを漕ぎ出した。

 一軒目は橘さんの家。両国にある3階建てのマンションだ。
 彼はバイト先の映画館で知り合った2つ年上の先輩で、大学2年の夏から3年の春まで付き合っていた。
 橘さんは私の知らない映画をたくさん知っていて、彼に好かれたい一心で教えてもらった映画は全部観た。半分くらいは何がいいのかわからなかったけれど、橘さんと同じものが好きな私でいたかったから、思ってもない褒め言葉ばかり言っていた。
 私が熱心に感想を伝えると、彼はすごく満足そうな顔をする。そのあとで、私の感想をねじ伏せるような、長い語りをはじめる。その横顔をいつもうっとりしながら見ていた。
 サドルに腰かけ、マンションの外観を眺める。3分くらい滞在したら満足して、私は次の目的地へと向かった。

 2軒目は弘平くんの家。高井戸にあるアパートの、2階の角部屋だ。灯りがついている。
 彼とは就活セミナーで知り合い、大学3年の冬から社会人一年目の秋まで付き合っていた。
 同い年の弘平くんの部屋は、等身大のほどよい不潔さがあった。トイレの便器にホコリがかぶっていたり、部屋の隅に髪の毛が溜まっているのを見ると、なんだか安心した。
 彼は私とは全く違う交友関係があって、連休にはいつも地元の仲間たちとスキーやキャンプに出かけていく。好きな歌手を聞くと、特にいないけど好きな"歌"はある、と言ってYouTubeから流行りのアニメソングを流してくれた。
 彼のその、浅はかさが好きだった。この人は私のことを否定しないし、し合えるほどの共通点もない。だから心は凪いでいて、いつまでも一緒にいられる気がしていた。
 そろそろ寒くなってきた。筋肉痛の予感もする。私は次の家を目指す。

 3軒目は修ちゃんの家。仙川にある、4階建てのマンションだ。
 彼とは社会人3年目の春、友人の紹介で知り合い、私史上最長の3年間付き合うことになる。
 修ちゃんはとてもやさしかった。私が些細なことで怒ったり、泣いたりしても、嫌な顔ひとつせず隣にいてくれた。
 休みの日はふたりで映画を観たり、お笑いライブや音楽フェスに行った。6つ歳の離れた修ちゃんとは、観てきたアニメやドラマも全然違ったけれど、そんなことはどうだってよかった。そういう違いすらも、すべてが愛おしかった。
 非の打ち所がない、完ぺきな恋人。私はそれが、途端に怖くなった。彼のやさしさに触れるたび、自分がすごく矮小な人間に思えてつらかった。少しの間だけでいい。私にふさわしい場所に帰りたい。そんな理由でマッチングアプリをはじめ、そこで知り合った男と浮気をしたことがきっかけで別れた。
 彼と過ごした部屋の窓を見つめる。カーテンが変わっていないから、多分まだ修ちゃんはあの部屋に住んでいる。
 日も暮れてきた。そろそろ帰ろう。

 橘さん、弘平くん、修ちゃん。彼らとの記憶をたどりながらペダルを漕ぐ。踏みしめるたび、胸が痛む。私は来月、結婚する。
 ほんとうは怖かった。こんな自分と結婚してくれる人がいるなんて、信じられなかった。
 だって私は、心の底で彼らのことをずっと見下していた。もしくは、見下したかった。自分より"下"の人間がそばにいることで、安心したかった。修ちゃんのときは、それがうまくできなかったから逃げたのだ。私はそういう人間だった。
 今日はこんなバカみたいなことをして、あの頃私は彼らを見下してたんじゃなくて、本当はちゃんと好きだったって思いたかった。だってそうじゃないと、誰も私のことを好きになんてならない。
 涙がにじむ。こんな最低な私は、しあわせになってもいいのだろうか。

 玄関のドアを開けると、婚約相手がリビングで寝そべってYouTubeを観ながら私を出迎えた。
「おかえり」。
 私が今日、どこに行っていたかも知らないで、呑気に私を受け入れる。いや、もしかして本当はぜんぶ、知っているのかもしれない。
 私はこの人を、しあわせにすることができるだろうか。
 はじめての感情と、後悔と、ほんの少しの明るい予感を抱きながら、私は彼の名前を呼ぶ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?