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笑い声をさらす

 自分の笑い声が嫌いだ。ゴフッ、ンホッ、みたいなキモい導入からアハハハハ(大爆笑)にたどり着くまで過程が我ながらなかなか残念なのだが、そんな声をさらす相手も家族くらいしかいないので、特に治そうとする機会もなかった。
 外で笑うときはさすがに気を遣って、マシな声を出そうと無意識に意識している。

 ということはつまり、心からの笑い声をさらけ出せる相手はわたしにとってかなり深い関係であり、気を許している相手なのでは?ということに気づいたので、備忘録として言葉に残しておきたいと思う。

 先日、新宿バティオスにお笑いライブを観に行った。『雨に打たれたら口紅』というユニットライブで、ヨネダ2000・にぼしいわし・河邑ミク・高田ぽる子が出演するファイナリスト勢揃いの豪華なライブだった。
 会場のキャパがかなり狭く、隣の席の人とは腕と腕が触れ合うくらいにぎゅうぎゅう詰め。何か物音を立てようものならば、かなりよく聞こえてしまう距離感だった。

 そんな中で大きな声を出して笑うのはすごく気が引ける。どの組のネタもめちゃくちゃ面白いから、家にいるときの声で笑いたいのに、それを聞かれて変だと思われたくない。
 その一心で、しばらくは電車で動画を観てるときみたいに、マスクの中で大きく息を吸ったり吐いたりしながら、目をかっ開き、なるべく声を出さないように笑っていた。

 すると聞こえてきた、左隣の女性の大きな笑い声。恐らくわたしより少し年上の、綺麗な人だった。
 低めの声でゆっくりと「アッハッハッハ」と言うタイプの笑い方をしていたのだが、それが少し、いや、かなりキモかった。一瞬ネタが入ってこなくなるくらいキモかった。
 それを聞いてわたしはすごく、安心したのだ。ここに敵はいない。そう思えた。

 それからわたしは、その女性に呼応するみたいに、大きな声で笑った。
 ゴフッ、アッハッハッハ、ンヘッ、アハハハハ。
 よく聞いてみると、会場にいる全員、結構キモい笑い声だった。

 今の今まで気づかなかったけど、心からの笑い声を誰かにさらけ出すって、少し恥ずかしくて、実はとても勇気のいることだ。
 「笑う」とは本来生理的な行動で、思わず出てしまった笑い声は、自分ではコントロールできない、意識の外側にあるものだから。
 どんなに上品な人でも、大爆笑している姿はなんかちょっと行儀が悪く見えるし、動物くさい感じがする。それを見ていられないという人もいるだろう。

 しかしわたしは、相手からそういう、人間くさい品のなさが垣間見えたときにしか感じられない親近感とか、仲間意識みたいなものがすごく好きなのだ。
 だからラジオをよく聴いたりするのだと思う。ラジオって、爆笑する人の声をたくさん聴けるから。

 お笑いライブもその感覚に似ていて、会場には笑い声を上げに来た人しかいない。行儀の良いままでい続けようとしている人なんて誰ひとりいなくて、品のない姿を許してくれる空間があるということがとても嬉しく、心強く感じるのだ。
 そしてみんな一緒に、それぞれのキモさで、それぞれの笑い声を上げる。

 前の会社を辞めた日、古くからの友人とNON STYLEの単独ライブに行ったときのことを、今でも時々思い出す。
 その日もまた、左隣に座った友人が、周りを気にせず大きな声で笑っていて、それがすごくすごく、嬉しかった。彼女の姿を見て、わたしも安心して大きな声で笑えたのだ。

 わたしにとって、心からの笑い声をさらすことは、犬が寝転がってお腹を見せる行為と同じだ。「あなたに気を許していますよ」という証のような気がしている。
 最近はひとりでお笑いを観に行くことが多かったのだけれど、久しぶりに誰かを誘ってみようと思う。

 自分のキモい笑い声が嫌いだ。でも、誰かのキモい笑い声は好き。そうやってキモさをさらし合える人がいるだなんて、すごく恵まれたことなのだ。
 笑い方って本当に人の数だけ存在していて、それにたどり着いた過程にも、それぞれのストーリーが存在しているような気がする。
 そういうところまで全部含めて、人の笑い声を愛せたらと思う。

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