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ありがとう、オジー

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1月20日、海と山に囲まれた美しい村、国頭村与那区で、長い間一人暮らしをしていた祖父が亡くなりました。(与那の自然の美しさが分かる動画をいくつか探してみました。涙が出る程美しいので、皆さん見てみてね)

↓ダイビング、シュノーケリングが好きな方はこちらを見てみて♪

1月13日に祖父が自宅で倒れているのを区長さんが発見し救急車を呼び、病院に運ばれてから一週間。
1月18日に容体が悪くなってからあっという間でした。

18日に容体が悪くなったと聞いてから沖縄に帰ろうと思ったのですが、コロナ対策で県外からの面会を断られ。なので、19日に息子の学校を休ませて、一緒にビデオ通話しました。

20日朝亡くなり、その日のうちに沖縄入りし、21日に火葬しそのまま家族葬で見送りました。

そして22日から祖父の家を掃除していたのですが、尿が漏れたズボンや嘔吐の跡があり、祖父は実は救急車に運ばれる前から具合が悪かった事が分りました。
11月には妹が祖父に会いに行っていますが、その時は元気だったし、叔母も12月28日に電話した時には普通にしていたそうです。恐らくその後具合が悪くなり、でも誰にも言わずにいたようです。
会う度、電話する度に、「オジーは元気だよ。心配しないでいいよ。」と言っていた祖父。元々病院に行く事も好きではなかったし、誰にも介護等されたくなかったのでしょう。
自分で死ぬ事を選んだ、自分で死に方を選んだんだな… と思いました。

私は子どもの頃に火事で父を亡くしています。
自分の家が燃えるのも見ているし、泣き叫んで火の中に飛び込もうとする母の姿、それを止めようとする人達の様子も、今でも覚えています。
葬式では、全員がこの世の終わりかの様に号泣していました。
母はその後体調を崩し、しばらく働けなくなっていました。
私も父の死を自分の中で長い事受け入れられずにいたので、火事の現場となった実家跡地に行けたのは、大人になってからです。

でも、祖父は違います。
もちろん、寂しさはあるけれど。
オジー、お疲れ様。
オジー、ありがとう。
そんな気持ちでいっぱいです。

こんな風に大切な人の死を見送れる事を、とてもありがたく、そして幸せに感じます。

祖父の家を掃除していたら、次々と思い出の物が出てきて、叔母と妹と3人で、笑いながら掃除できました。
私と息子が送った手紙も、息子が描いた絵も、妹が送った年賀状も、私が子どもの頃に描いた絵も、そして毎年誕生日には必ず送っていたプレゼントも。全部、大事にとってありました。私達のライブのフライヤーも、大事に包んでとってありました。

実は、祖父が倒れたりしたら私が介護しに行こうと思っていました。母は再婚しているので玉城家とは今はもう関係ない人ですが、祖父の事をいつも気にかけていて、私が玉城姓に戻した時から、「オジーに何かあったらあなたが行かないと」とずっと言われていたし、私はずっとそのつもりでいました。
祖父はあの地にこだわりがあったので、祖父が引っ越すという案はなかったのですが、家自体がものすごくボロボロだったので、直すより建てた方がいいかも、オジーが健康に暮らせるためなら私が借金してもいいし、なんて話も夫や妹としていました。

でも、介護することもなく、家を建て直す事もなく、祖父は死んでいきました。

それもきっと、祖父が選んだ事だったんだなと、今となっては思います。

自分で死に方を選んだ事、死ぬ事を選んだ事、世話にならない道を選んだ事、全て、祖父が選んだ事。
そして、それは、祖父の強さと優しさと、大きな愛故だと思います。かっこいいよね。

祖父の家を掃除をしている時、白い蝶々がヒラヒラと飛んできました。
蝶は魂の世界と結びつきが強く、その中でも白い蝶は「守護」の意味があります。
オジーが見に来たんだな
オジーが見守ってくれてるんだな
と感じ、温かい気持ちになりました。

オジー、今までありがとう。
そしてこれからも見守っていてね!
グソー(あの世)でも元気で!

オジーがあの世で困らない様に、ウチカビ(あの世のお金)を沢山燃やしたので、今頃はグソー(あの世)で飲み歩いているかもしれませんね(笑)

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