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献身ってなんだ?

青い傘の占い師・志彌さんが私についての記事を書いてくださった。

https://note.com/shiroyukimin/n/n0d1f48da2c01

志彌さんは私のことを「献身的」と評した。圧倒的相手目線で物事を見れる人だと。

はて?そうだろうか?

というのが私の最初の感想である。志彌さんの占いを疑っているわけではなく、自分から見た自分と他人から見た自分は乖離があるということなのだろう。だが、私は自分のことをこの上なく自己中心的な人間だと思っている。多分、かつての友人に聞いてもそう言うと思う。

確かに、集団の中では中間ポジションになることが多い。でもそれは他人の為じゃない。自分の為、というより自分はそれしか出来ないからなのだ。

私は集団、組織が苦手だと自分で思っている。皆が良いものを作ろう、より良くしようとするあまり、意見が度々激突する。それは健全なことだ。そうやって本気の喧嘩をして、他人とぶつかり合って認め合って、そしてより高みを目指していくものだ。

だが、私にはその本気の喧嘩ができない。私だって意見はあるし、不平不満は山のようにある。だけど、それを表に出すことができない。要するにビビリだ。
だから、飛び交う爆弾を受け止めて、焦土と化す前に受け流してヘラヘラ笑うことしかできない。気がつけば爆弾を投げ合っていた二人は肩を組んで笑顔で歩き出し、その背後には爆発に巻き込まれて黒焦げになった私。

いや、なんだこれ。と思う。

それでもやっぱり人に向かって爆弾を投げることはできない。でも、ストレスは溜まる。だから全てを捨てて逃げる。
「何か辛いことがあったら遠慮なく相談してね」と言って、私から言葉を引き出そうとしてくれた友人はいた。私の逃げ癖を見兼ねての苦言も含めてのことだったのだが。その時私は、内心「それができたらどれだけ楽なことか」と怒り狂った。

人目を憚らずに大泣きしても、皆が心配して駆け寄ってくれる。どれだけ我儘を言っても、皆が笑って許してくれる。馬鹿げた理想論を吐いて、本気になって周りを巻き込んで、実現させてしまう。

こういう人は存在する。羨ましいと思うし、いい加減にしてくれとも思う。私にはそれができないから、自分には何が求められているのかを観察するしかない。その役割に徹するしかないのだ。

なるほど、たしかに「献身的」だ。
馬鹿馬鹿しいほどに。

恐らく、私みたいな人間のことを理解できない人もいるだろう。お互い様だ。周りを巻き込みまくる人間と、嫌なことに直面した時、いざという時突然姿を消す人間。自己中心的なのはどっちなのだろうと、時々考えてしまう。

志彌さんの意見を否定するわけじゃない。志彌さんの言ってくださったような人間に見えているなら、それはありがたいことなのだ。それこそ、私が望んでいることだ。
逆に言えば、私のような人間にしかできないことでもある。長所と短所は表裏一体なのだと、強く実感した。

この「献身」が、良い方へ作用すればいいなぁ、そう出来る術を探してみようと思った深夜三時のことでした。
改めて志彌さん、ありがとうございました。

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