見出し画像

『告知』

在宅医療を専門とする医師たちと看護師たちの物語。

「綿をつめる」
湯灌師に会ったことがある。彼/彼女たちは、死者を永遠の夢の世界へと送り出す準備をする。死後1日を経たその方の顔が、腫れ上がり生前の面影が全くなかった。これではあんまりだと家族中が悲しんだ。ところが、きれいにしていただいた後の顔がすっきりときれいで、皆一様にほっとしたものだった。湯灌師はふたりいた。主導していたのは、とても若い男性の湯灌師だった。遺族への言葉も、実に的確で落ち着いていたのが今も印象に残っている。

新米の在宅医療医師、三沢とあの時の湯灌師が重なった。三沢は在宅での初めての看取りをする。その後、三沢は看護師の中嶋に指示されながら、初めて死後処理を経験をする。在宅医療を専門とする者たちが、どのような思いで患者やその家族や病気と向き合っているのか、私が全く知らなかった世界を「綿をつめる」がはじめて見せてくれた。


「罪滅ぼし」
このままでは虐待になりかねない。医師も看護師もケアマネージャーも危惧していた。患者は重度のアルツハイマー病。妻がデイサービスを利用することで、夫にも変化があった。介護に積極的になり献身的だ。妻は十六等分にしたシナモントーストを、夫に食べさせてもらうのがうれしく、夫は昔のように妻を「タミ」と呼ぶようになった。

「……これ以上悪くならなきゃいいんです。今の僕は、家内のために生きているようなもんですからな。着替えや食事の世話で、1日があっという間です。家内がいなくなったら、僕はすることがなくなりますから」


「告知」
告知されたくない患者がいる。でも末期の場合はどうするべきか。医師の一ノ瀬は、患者の「治りますか」という質問に精一杯答える。「治ります」でも「治りません」でもないとしても。後に看護師の中嶋に一ノ瀬は言う。

「運命は、ときに優しいということだよ。私は無理をしなかったからね。強いて言えば、自然に任せる勇気を持っていたということかな」


「アロエのチカラ」
私は一切の民間療法も、インターネットの目障り極まりない美容・痩身広告も信じない。手っ取り早さ、手軽さ、良い結果だけの羅列でしかないから。

ただ、もしも私や身近な人が不治の病にかかり、苦しんでいたらだろう。気休めだとしても、自己満足のために民間療法に手を伸ばすだろうか。私はどんなに体が蝕まれても、今の私のようにそういったものには手を出さないでいたい。

妻の床ずれにアロエを塗り症状を悪化させる夫に、自分が面倒を見たくないからと母親の意思を無視して、尿道カテーテルをつけるよう医師に迫る息子に、怒りを感じる。でも、彼らの生活や人生がある。在宅医療に家族の協力は不可欠とは言え、家族が精神病を患ってしまう可能性もある。三沢の言葉は医師だけではなく、親も教師も心得ておくべきだと思う。

「医者を恨むことで、つらさを乗り越える人もいるからね」


「いつか、あなたも」
「統合失調症(疑)」の26歳女性が、在宅医療を受ける珍しいケース。更に、車椅子を使い、尿道カテーテルが入っている。引き継ぎで病院の医師は、演技性人格障、回避性人格障害、妄想性人格障害、高機能自閉症のどれかひとつに絞れないと一ノ瀬に伝える。一ノ瀬は「……極端に性格が悪いと言うことじゃないんですか」と言うが、後々彼自身が困った経験をする。

「陽性転移とは、患者が医師やカウンセラーに、妄想的な恋愛感情を抱くことだ。」

カウンセラーは相談者と決して個人的な関係を持ってはいけない。カウンセリングの場以外で、たまたま遭遇することも避けなくてはならないほどだ。

この陽性転移は日常にも存在しているのではないだろうか。相談に乗ってくれた相手をいつの間にか好きになって困らせてしまったり、相手は恋愛感情はなく、社会人として礼儀を重じているにすぎないのに、相手も自分を好きだと曲解する。

人に触れる職業は多大な心理的ストレッサーを感じるだろう。人に触れるとは、その体の不調に直接触れることだからだ。医師や看護師たちに限らない。触れる仕事を選ぶからには、精神的にある程度健康でなくては務まらないはずだ。


「セカンド・ベスト」
体の絶え間ない痛みを感じたら、楽になりたいと思うのは当然だと思う。尊厳死と安楽死は似て非なるもの。尊厳死は延命治療をせず自然な死を迎えること。安楽死は命の長さを縮めるもの。

三沢は一ノ瀬に「ヘビーセデーション」を示唆される。安楽死が許されない中で、どうにか患者を楽にさせる方法はないかと模索していてのことだ。セデーションとは、鎮痛剤によって痛みを意識させないようにすることだそうだ。そこに「ヘビー」が付く。当然より危険が伴う。

#告知 #久坂部羊 #本 #小説 #在宅医療