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物語の話(西村曜)

 田丸さんの好きな本について、読後に「不完全」と、もうひとつ「関係」というワードが胸に残った。人がおのれの不完全さを思い知るのはなんらかの関係のなかでしかできないことかもしれない。

 前回にも書いたが、わたしは中高と不登校だった。中学三年のある日おなじクラスの生徒にクセ毛をイジられたのが発端で、学校へ行けなくなった。親しい友だちはプリントといっしょに「学校へおいで」と励ましの手紙を届けてくれたし、担任の先生も家まで来てくれ、親もともに悩んでくれたが、再登校はできなかった。こうなってくるとなすすべがない。しだいに友だちや先生との関わりは絶たれ、親ともぎこちなくなり、わたしのまわりの人間関係は閉じていった。代わりに自意識は無限に広がって、わたしはわたしの輪郭がよくわからなくなってしまった。

「小川 (略)私、先生のご本の中で印象深かったことがあるんです。京都の国立博物館の文化財を修繕する係の方が、例えば布の修理をする時に、後から新しい布を足す場合、その新しい布が古い布より強いと却(かえ)って傷つけることになる。修繕するものとされるものの力関係に差があるといけないとおっしゃっているんです」

 作家・小川洋子と臨床心理学者・河合隼雄の対談集『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)を読んだのは、不登校のまま高卒認定試験を経て大学へいってからだ。対談では友情の話、魂の話、そして物語の話などがゆったりと語られている。文化財の修繕のくだりは「友情が生まれるとき」からひいた。小川のこの発言をうけて河合は「だいたい人を助けに行く人はね、強い人が多いんです」「そうするとね、助けられる方はたまったもんじゃないんです」と言う。そうなのだ、不登校だったわたしを、友だちも先生も親もなんとか助けようとしてくれた。そのことはありがたく、どうじにつらかった。強い力で無理に引っ張りあげられるような痛みを感じていた。その痛みを、この本はわかってくれた。

「河合 (略)私は、『物語』ということをとても大事にしています。来られた人が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような『場』を提供している、という気持がものすごく強いです」(「自分の物語の発見」)

 元不登校児のわたしの気持ちに一冊の文庫本だけが寄り添ってくれた、というのも、学校へ行けなくなってからずっとじぶんがわからなくなっていたわたしが、その輪郭を取り戻すために必要とした物語なのかもしれない。しかしそれからしばらくして、たまたま読んだ谷川俊太郎の詩にこんな一節があった。

 生きることを物語に要約してしまうことに逆らって(谷川俊太郎「夜のラジオ」『世間知ラズ』思潮社)

 また、わたしが初めて参加した歌会で、拙歌について言われたことがある。「短歌は『お話』じゃないからね」と。

 生きるとは、自分の物語をつくることなのか、そうではないのか。こころの痛みを抱えた者が必要とする物語。しかし物語に要約したときにこぼれ落ちてしまう物事。そしていまわたしが取り組んでいる短歌は「『お話』じゃない」のだ。だからこの話も、物語のようにきれいな結末はなく尻切におわる。という展開には、しょうしょう無理があるけれど。

めでたしとある物語にクレヨンのきみどり色で継ぎ足す〈しかし〉

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