短歌をはじめたころ(辺見丹)
夜、タイムラインを遡ると、はりーさんが一冊の本の写真とともに「中崎町の葉ね文庫で中澤系uta0001.txtを買った」とツイートをしているのが目に入った。4年前のことだ。
はりーさんは名前をはらだ有彩さんといい、イラストレーターなどをされている方だった。友人のすすめでフォローしていたのだが、私服の写真をその雰囲気に合ったテーマ曲のタイトルとともによく投稿していて、いつもそれをなんとなく見ていた。短歌の人たちにとっては、ナイス害さんの私家版歌集『フラッシュバックに勝つる』の表紙デザインをされた方だといったほうがわかりやすいかもしれない。
はりーさんが載せた写真に写っていた本は、光沢感のある黒色の表紙をしていた。何について書かれてある本なのかはわからなかったが、不思議と惹きつけられるものがあった。でもそう感じたのは、「死の自覚に拮抗する新生への意志」という社会学者による帯文の力も小さくなかっただろうと思う。
その頃、何をしていても手応えがなかった。何かを成し遂げたいという気持ちはまだなんとか冷めていなかったけれど、だからといって何ができるというわけでもなかったから、漫然とやるべきことだけこなすような日々だった。結局自分が何者でもないことは遅かれ早かれ分かるのだし、誰もがその気付きとどこかでうまく折り合いをつけながらそれなりにやっていくのだということも理解していたつもりだった。そしてその歩みを総体として振り返ったときに、それが良い人生だったと感じるだろうことも。だとしても、それをもうやらなきゃいけないのか、という気持ちでいた。だから、その本には何かあるのかもしれないと感じたのだ。
中澤系の名前を検索して出てきたツイートにはひとつずつ歌が書かれていて、たとえばこんな歌があった。
ひょっとして世界はすでに閉ざされたあとかと思うほどの曇天
あきらめることだねきみのまわりには秩序が透き間なく繁茂した
それから急いで『uta0001.txt』(双風舎)を手に入れ、夢中で読んだ。この作者は閉じたものや閉じかけているものをよく見ていた。ドゥルーズの死についての歌にしたってそうだ。そこには確かに強い否定性と諦念が感じられたが、まだ光を求めてひりひりしているところがあって、当時の私の気分にはぴったりだった。そこから、自分でも書いてみたいと思うようになるまで、ほとんど時間はかからなかったと思う。
『uta0001.txt』をめくっていくと、次のような肯定的な力をもった歌が息継ぎをするように並んでいる。
ここちよき頭蓋の丸み確かめるように力を強く弱くと
こんなにも人が好きだよ くらがりに針のようなる光は射して
還らないからね彼方にあるぼくの金鉱床をみつけるまでは
私の短歌は全体としてあまり明るいものではないのだが、それでも歌がひとりでに肯定性の方へと折り返したがっているように感じられる瞬間があって、それを見たくて続けられているところがあるかもしれない。
この夜もきつとだれかの前夜だがうたた寝の君の眼鏡をはづす
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