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神戸在住(山川築)

 そういえば、交換日記をするのは人生で初めてだ。定期的になにかを交換すること自体が初めてかもしれない。

 木村紺『神戸在住』(全十巻、講談社)は、神戸の大学の美術科に通う辰木桂の日常を描いた作品だ。基本的には、起伏に富んだ展開は少なく、桂の語り口はおだやかで抒情的だ(そして、だからこそ、まれに現れる激しさが強烈でもある)。ちなみに、カバー下のおまけも必見。

 交換、ということで思い出すのが、桂と「読書友達」の伏見淳美の話だ。週に1度だけ同じ講座に出席するふたりは、会うたびに文庫本を貸し借りする間柄である。オー・ヘンリーと谷崎潤一郎、リチャード・バウカーと太宰治、モンゴメリと芦原すなお、宮本輝と野坂昭如……交換する本はさまざまだ。

 西村さんが、河合隼雄さんのことばを引用しつつ、輪郭を取り戻すために自分を物語化する、という視点を示されているが、これは、わたしが(多くの人が?)世界(外部)に対してしていることと似ているのではないだろうか。世界はあまりにこんがらがっているので、整理して加工して、物語として受け取らないことには、情報を処理できないのだ。

 一方、同じく西村さんが引用されている谷川俊太郎さんの詩の一節にもあるように、物語化とは要約することでもある。現実を基にした物語は、いたるところに転がっている。発言や記述は文脈から切り離され、複雑な言い回しや微妙なニュアンスは均されて、ひどいときには嘘が混ぜ込まれ、理解しやすい一連のお話が提示される。現実ではないはずのそれらの物語は、しかし、しばしば、あたかも現実そのものであるように扱われる(そもそも客観的な現実なるものは存在するのかという問題はさておき……)。

 数年前、とある人に、物語が苦手だと言われ、意表を突かれる思いがした。ある物語は好きだが、別の物語は苦手……といったことはあるにしても、物語自体が苦手、という発想自体がなかったからだ。最近、嫌な物語化を見ることが少なからずあって、それが物語のネガティブな面かなあ、と考えたりしている。その人が、今のわたしと同じように感じていたのかはわからないけれど。

 本にかぎらず、実在の固有名詞が多数登場するのが、『神戸在住』の特徴のひとつだ。聴いた音楽、観に行った美術展の展示作品、友人と遊びに行ったテーマパーク。各話の扉絵には神戸近辺が描かれ、合間には観光ガイド的なページが挿まれる。
 「喋り言葉のことを色々と。」という回では、友人たちの方言について、桂が考えをめぐらせる。改めて読んでいると、本作では人物の行動や考え方だけでなく、しゃべりことばや口調、あるいはことばづかいが細やかに描き分けられ、そこからキャラクターが立ち上がっていくことに気づく。

 『神戸在住』を読んでいると、物語より、無数の細部が印象に残る。それらが積み重なって、作品世界が作られている。物語化が細部を切り捨てていく作業だとしたら、『神戸在住』は、物語化に抗していると言えるのかもしれない。
 神は細部に宿る、というのは少し陳腐かもしれないけれど、わたしの目にはそんなひとつひとつの断片が、かけがえのないほど輝かしいものに映るのだ。

生きとるんならええやんか 傘立てに深き緑の傘をねぢこむ

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