元気をだして
「自分が何かを言ったところで社会は変えられない」
そういった気持ちは、この日本社会に生きている限り、多かれ少なかれ誰もが抱いているものではないだろうか。
もしも一人一人が自らの手で社会の在り方を選択し、時代を進めてきたのならそうしたことにはならなかったかもしれない。けれどこの30年のあいだ、日本が豊かさを失い行き詰まっていくのとともに、余裕をなくした人々もまた、政治や未来に対する思考の射程を失ってしまった。そして自らが政治を動かしていく主体となるよりも、むしろ政治をやりすごしていくようになっていった。
そしてそのなかで、停滞や閉塞を打開する思想を誰も案出しなかった。
だから社会は変わらないというのはこの時代を言い表した率直な感想であるように思える。
この期におよんで強行される五輪はこの国の知性の陥落を浮き彫りにしている。一年の延期を経たのちに、あろうことか過去最悪の感染状況のなかでそれは強行されようとしている。いったいここに何の合理性があるというのだろう。
安心安全の大会? コロナに打ち勝った証としての五輪?
データは惨憺たる有様を示している。その事実から目を背けて客観的な判断を放棄していくなら、それは政治ではなく虚妄と迷信に満ちたマツリゴトを行っているのだ。
そうしたことがこの社会ではまかり通ってしまう。そのことに恐怖や屈辱を感じていい。
痛みを感じるのならそれも正しい。踏みつけられたのは多くの市民だから。中止すれば救われるはずの多くの命が失われることになるのだから。
知性の敗北を恥じてもいい。命を踏みにじる政治をとめられない抵抗の水位の低さもまた、ここにある現実にほかならないのだから。
そして焦土か泥沼の中から立ち上がるしかない。何度も。
現代の閉塞した空気は政治だけでなく、小説や映画や音楽や投票率などあらゆる表現を覆ってしまっている。今を生きる人たちが行う様々な表現が色あせてしまっている。ぼくたちは色あせた人生を生きている。しかしその停滞は破ることができなくちゃいけない。
本当にいつか情勢が動き、停滞や閉塞が打開されていくなら――。その時代には社会を動かす力に満ちた表現が日本のあちこちを駆けめぐることだろう。そのような時代を生きてみたい。できるならその先駆けでありたい。
だからせめてこういう立場をとっていたい。
「自分が何かを言わなければ社会は変えられない」
人は歪んだ社会に合わせて自分を歪めて生きていくばかりじゃない。歪んだ社会を正そうとして生きることもできるんだ。
現実はいつもそのどちらかを選べと言ってくる。その選択の先に開けてくるものが必ずある。
誰かが沈黙を選ぶとき、それを見ていた他の誰かが沈黙する。けれど表現を放つなら、それは人から人へと連鎖して未来へと広がる。
だから辛いときや自信を無くしたときは自分に言い聞かせる。
――政治体制が諦めを強いてくる時ほど諦めるな。
――言葉が無力だと思えて仕方がない時こそ発言をやめるな。
――沈黙する空気の中でこそ自らの態度を公然と表明せよ。
それが本当に社会を変えてしまうかもしれないから。
この停滞や閉塞を打開する道はどこにあるのだろう。結局のところそれは一つ一つの表現の先に見出されるとしか言うことはできないように思う。停滞や閉塞にとらわれながら、それを脱却するものを模索していくしかない。
元気をだそう。今という時はいつだって歴史の先端だ。
見渡したって道なんかどこにもない。
悩み、迷い、つまづきながら進んだ場所が、いずれ道となるのだ。
2021.07.21 三春充希
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note: みらい選挙プロジェクト情勢分析ノート