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「経済かコロナ対策か」という問題のとらえ方は始めから間違いです

 これまでの政府の新型コロナウイルス対策は、とても合理的とは言えないようなものばかりでした。

 Go Toキャンペーンは、もともと閣議決定された緊急経済対策に「感染症の拡大が収束し、国民の不安が払拭された後」に行うと書かれていたものです(出典)。しかしそれは前倒しで始められ、11月に状況が悪化すると、今後の感染者数は「神のみぞ知る」という発言を大臣がしました。将来の見通しのなさを吐露する一方で、かたくなにGo Toを継続するという方針がとられている――そこには一体どのような合理性があるのでしょう。

 今はすでに一部の都道府県で独自の非常事態宣言が出されており、「自粛が要請」されています。自発的に行うものであるはずの自粛が政治家によって要請されるというのも、まるで政治の責任の放棄を象徴するような日本語です。「Go To」と言いながら、他方では「自粛」と言う。矛盾する方針で翻弄され、自己責任論をおしつけられて疲弊してく国民の姿は、まるで政府に虐待されているかのように見えなくもありません。

 この矛盾する方針には、経済を回すための「Go To」と、コロナを抑制するための「自粛」という発想が背景にあることがうかがえます。「Go To」すればコロナが広がる、「自粛」じゃ経済は回らない――しかし、経済対策とコロナ対策は果たしてそのようにぶつかり合うものでしょうか?

 経済を重視するというのには、その担い手である国民一人一人にとって、力を発揮しやすいような環境を作ることが根底にあるはずです。例えば一部の働き手に不利益を押し付けないこと。緊急時には疲弊せず、安心して来るべき日に力を発揮できるように補償をすることが根底にあるはずです。

 私たちの社会には、様々な事件や衝突、情勢の混乱や災害が生起します。少子高齢化といった長い目で見た変化も起きています。そうした問題を解決しつつ、一人一人が力を発揮できる職場や教育現場を実現してこそ経済は成長するのであり、本来ならその采配をするのが政治であるはずです。そのために税金を投入し、人々を動かし、社会の様々なリソースを組織してその時々の「必要なこと」や「しなければならないこと」に対処するわけです。

 時代や状況が変われば「必要なこと」や「しなければならないこと」は変化します。例えば高齢化が進めば、介護を担う人手の数を増やすことや、そのために介護の技術を教えること、介護の施設にお金を投入することが必要となるでしょう。そうすれば今度は介護が雇用を生み、産業として成長することを結果します。このようにして、時代や状況にふさわしいように産業の構造をシフトすることが様々な場面で行われているのが、この社会にほかなりません。

 このように考えていくと、新型コロナの出現も何ら特異なことではないことが見えてきます。ここでも必要なのは新たな局面に対応できるよう、お金の流れや、仕事や産業をシフトさせるということにほかならないからです。病院を増やす。検査体制を拡充する。医療の担い手を増やす。そのために技術を教える――そういうことが求められてくるわけです。つまり私たちの社会の持てる力を、これまでよりも多く医療に振り分ければ良いということです。ほかにも必要なものがあれば、それに振り分ければよいのです。そのなかで、一人一人が活躍する場面を確保し、コロナと戦うために力を結集する。すべてはこの国のリソースをどのように組織していくかということで、それこそ政治がなすべき第一のことです。医療関係者の賞与が下がったり、感染のリスクや多大な負担のために仕事を続けていけない人が出ている現状は、それとは真逆と言わざるを得ません。新たな局面にあわせてシフトすることがうまくできなければ、労働力が正常に発揮されずに大きな損失を生んでしまうのです。

 振り返ってみればバブル崩壊後の30年間、日本ではずっと一人一人の活躍の場を軽視する政策が行われてきました。バブル崩壊で打撃を受けた経済を回復させるために政府がとった政策は、正規雇用から非正規雇用への転換や労働強化、ゼネコン・自動車などの従来通りの一部の産業に注力することで、多くのものがないがしろにされたのです。仕事を得られずにさまよう人たちがいる一方でブラック企業が野放しにされ、仕事に押しつぶされる層がおり、人手不足が騒がれるという倒錯した事態を招きました。容易に解雇される環境の下で、一人一人が技術を蓄積し、働きやすい環境で働くということがいかに軽んじられてきたか。政治は、国民一人一人がのびのびと力を発揮できる環境を作らなければならないのに、それがなされず、日本の若手は活躍する場を失い、閉塞して力を発揮する機会をなくしているではありませんか。

 その結果、今の日本のGDPの推移は諸外国と比べてどうなっているでしょうか。特定の人たちに「力があるのにそれを活かせない」という状況をおしつけてしまうのは、日本の社会全体にとって途方もない損失です。そうした状況を打開するということこそが、バブル崩壊以降の日本の停滞を打開することにほかならないわけです。それは大企業がどうだとか、株価がどうだとかいう話ではありません。人間社会の根底は、人間が力を発揮するということにあるのですから。

 これはコロナ対策でも全く同じです。バブル崩壊以降の悪い面が今のコロナ対応にあらわれていると言ってもよいかもしれません。いま私たちは歴史的な失敗国家の歴史的な失敗を目撃しているわけです。だから政治に関わってきた人たちには言わなければならないでしょう。その言葉そのままの意味で、ざまあみやがれと。ざまを見てください。この国の問題解決能力のざまを見てください。そこにあるのは日本の30年間の衰退を脱却するのと同じ問題です。野党にもそれはつきつけられているのですよ。

 日本の停滞を脱却するためには、それを実現するための社会の姿をきちんと模索しなくてはなりません。それと同じように、コロナと立ち向かうべく、様々なリソースが組織されていく社会の姿をいま描かなければならないのではありませんか。

 「経済かコロナ対策か」という問題のとらえ方は始めから間違いです。「自粛しながらGoTo」とか「マスクで会食」といった答えばかりが出てくるのは、考えるべきことを考えず、あまりに場当たり的で表面的なところに立脚しているからです。コロナ対策と経済は、そもそも対立するものではありません。

 検査体制、医療体制を拡充することに、産業のあり方、人々の力、お金の流れを転換していくことが必要です。このことは時代に合わせて社会のあり方を見直して、産業、人、お金をシフトしていくのと同じです。それがうまくできなければ経済が発展することはありません。バブル崩壊以降の日本のように。

 やるべきことを放棄して矛盾した政策を行い、国民を疲弊させ、挙句の果てに「自助」というのは、政治ではありません。

2020.12.5 三春充希

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