見出し画像

「生きていてもつまらない」を掘り下げてみた。

鬱っぽいときは、つい「生きていてもつまらない」と思ってしまう。それについて、ちょっとだけ掘り下げてみた。

まずは、「そもそも人生が楽しいものっていう認識が間違ってるのではないか」ということ。人生に期待をしすぎなのかもしれない。(いったい何を期待しているんだ。)「人生は楽しい!」「人生は楽しまなきゃ!」という「正しさ」が前提にあるから、人生を楽しめない自分のことを責めてしまうのではないだろうか。

実際、SNSに限らず、他人の様子を見ていると、人生が楽しそうに見えてしまう。しかし、それは単に、「隣の芝は青い」というだけの話かもしれない。どんなに楽しそうに生きている人も、心の中では何を思っているかなんて分からない。

自分の場合、精神病院に通院しているが、いつも混んでいる。こんなに精神疾患を抱えている人が多いんだ、というくらい混んでいる。精神科に通う前は、正直かなり敷居が高かったが、いざ行ってみると普通に若い人やサラリーマンや主婦っぽい人など、いろんな人が診察待ちしている。だから、一見楽しそうに見えている人も、心の中のことはわからない。

それにも関わらず、自分は周りの人(の表面的に部分)とすぐに比較して、羨ましく思ってしまう傾向があるのかもしれない。そして、「人生は楽しいもの!」「人生は楽しくあるべき!」という期待が、精神的に負担になっていた。OKサインを出す基準が高すぎて、日常がいつも赤点になっていた。

ある意味、つまんなくて暇してるのが普通。そのくらいの感覚でいいかもしれない。多分、「楽しくて仕方ない!」みたいなことって、年に数回あるかないかだと思う。それに、何となく好きなことや楽しいことって、何回もやっているうちに当たり前になる。あえてそれを楽しいとさえ思わなくなる。ただ何となくやってしまう、というだけ。

だから、楽しくない状態を否定すると、逆に自分がしんどくなる。「人生楽しまなきゃ!」みたいなポジティブマインドは、それ自体が重荷になってしまうこともある。もし「楽しくない」と感じたなら、それが全てだ。それに正解も不正解もない。「楽しく感じないといけないよ!」なんていうのは押し付けがましいだけ。他人にあれこれ言われる筋合いもないし、無理に楽しもうと努力や自己啓発をする必要もない。

つい人生に期待をしてしまうのは、理想が高すぎるのかもしれない。自分に対してもそうだ。少しの失敗で落ち込んだりしてしまうのも、自分に対する期待が高すぎるのだ。サボったり失敗したり誰かに嫌われたりすることもあるのが自分。その程度の認識でいればいいのに。

けど、それは「自信がない」という話ではない。その上で、自分を卑下しない。だって、そもそも失敗をする前提で生きていれば、自分が失敗しても自己否定なんかしない。「あ、予定通り失敗したな」と思うだけ。だから、別に自信を失うこともない。自信を失わないベースがあれば、努力量に応じて自身は貯まる。ヒビが入っていなければ、努力すればするほど自然と自信は貯まる。

人生に対しても同じように、退屈になったり、つまらなかったり、意味なんかあるのかな?と時折疑問に思って死んでしまいたくなるのが、人生。そんな風に思っていればいい。そうすれば、人生に対して失望なんかしない。きっと、わざわざ「人生はつまらない」なんて意識したりもしなくなるのだろう。水は透明だな、とか。白米は白いな、とか。そんな当たり前のことをわざわざ意識なんてしないだろう。それと同じ。人生は楽しいもの、刺激溢れるものという前提でいるから、つまらない状態が異常だと意識されてしまう。でもそれが本心なんだから、それが異常だと責められると辛い。別にそれでいいんじゃないか。無理に楽しまなくても。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?