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粗忽天狗

 地元の仙道研究会の会長である伯父から、面白いものを見せ
てやるので夕方に来るよう連絡があった。道場として借りてい
る廃小学校の校庭に来てみると、ひとりの男性が地表1メート
ルほどの高さを、うつ伏せのままジョギングくらいの速度で滑
空・周回していた。白い蓬髪が夕風に乱され、さながら空中土
左衛門といった様態である。
          *
 ピクッとして目が覚めると、そこは自宅ベッドの中だった。
 そうか、昨夜は小説を書きはじめたのだが、眠気ざましにと
アイリッシュコーヒーを服用したところ、さらなる睡魔におそ
われて深睡眠へダイブする羽目になったらしい。では、とPC
画面を見やれば案の定、書き出しの8行目の先は真っ白だ。白
くなるのは、あちこちの毛だけにしといてほしいもんだ。あぁ、
めんどくせえなあ。眠ってるあいだに書き上がってたらいいの
になあ。だいたい起きたところで何の用事もない年寄りなんざ
毎朝目ぇ覚ます必要なんてありゃせんだろが、って覚めなきゃ
死んでるってことだがね。ははは。んーしようがねえ、起きる
か。
 のそのそとベッドからはい出て洗面所にいき歯磨きチューブ
の蓋を開けて右手で絞ると、身長5ミリメートルほどの水干に
烏帽子姿の官人たちがにゅるにゅるとひり出される。各自両手
に極小の歯ブラシを持ち、おれに向かって一斉に「おはようご
ざりまする」と、きいきい声を張りあげる。あとはこいつ等の
乗った歯ブラシを口に突っ込みぱなしにしておけば隅から隅ま
で磨きあげてくれるという寸法だが、折悪しく花粉症のはじま
った時期で、口に入れた直後に堪えきれず特大のくさめを一発
お見舞いしたところ、ほぼ全員が吹き飛ばされて洗面台の鏡に
ビチャビチャ張り付き、血みどろ即死状態でズルリズルリと落
下しはじめた。
 と、ここまで書いて気づいたが、これって『イッツ・ア・ス
モールピープル』という小説の構想用フラグメントじゃなかっ
たか。
          *
 校舎の玄関前で伯父が手招きしていた。
 革のロングコートにデニムパンツとストライプのスタンドカ
ラーシャツ、手には銀ヘッドのステッキといういでたちは仙道
研究者というよりインチキマジシャンといった風体だ。
「どうだ。おもしろかろう」
「ええ。で、どういうトリックなんですか」
「仕掛けなどありゃせんよ。完全人力さ」
 こちらに近づきつつ、あお向けに転じた老爺の顔には見覚え
があった。
「あれは月川さんちの」
「そう。影春さんだ。一年ほど前から来てる」
 小学生のころ、同級生の家のとなりが月川家だったこともあ
り、よく遊びに行くようになった。彼は在野の民俗学者で、な
かでも修験道や天狗についての造詣が深く膨大な資料も有して
いた。それらの図版などを見せてもらいながら摩訶不思議な事
ごとの解説を聴くのが楽しみだった。高校からは他の町で下宿
するようになったこともあり、帰省時などに、ときおり両親経
由で噂を聞くくらいの関係になっていた。
「二年ほど前に初期の認知症って診断されたんだけど、ああい
う人だからデイサービスとか行っても浮きまくっちゃってさ。
本人の希望もあってうちに来るようになったってわけ。お前の
ことも覚えてて、当時のことを嬉しそうに話してたよ」
「たしか奥さんと二人暮らしだって聞いたけど」
「うん。それが半年前に奥さんが急死しちゃってねえ。それか
らしばらくして、この現象が起こりはじめたんだよ」
「医者は何て言ってるの」
「いや、話してないらしい。というか本人は滑空のことを何も
覚えてないんだよ。それに医学でこの現象を解明できるとは到
底思えないしな」そりゃそうだと思う。
「ほかの会員さんたちの反応はどうですか」
「素晴らしいってさ。そもそも、こういうことに対して懐疑的
な人は入会しないもんね」ひとしきり愉快そうに笑ったあと、
あくまでも自説だがと話をつづけた。
「物理的なメカニズムはわからないけど、認知症の本態が記憶
障害だとすれば『ヒトは自力のみで飛行できない』という記憶
そのものが消去されたんじゃないかと思うんだよ。だって胎児
のころって、一切そういうことを知らないわけだろ。飛べる・
飛べないって概念すらないというか」
「だからといって同じ状態なら誰でも飛行できるわけではない
ですよね」
「うん、そこがねえ今ひとつわからないというか」
 話している脇をすーっと通過した月川さんが、そのまま校門
からすべり出て行った。
 アッと小さく叫んで伯父が慌てたように後を追って走り出し
た。ぼくもそれにつづいたが、ふたりが門の外に出たとき、彼
の姿はどこにもなかった。
「変だなぁ。いつもは歩いて帰るのに。あの姿を目撃されたら
騒ぎになりかねんし、ちゃんと帰れればいいんだが」宵闇の中、
心配そうな声が響いた。
          *
 ピクッとして目が覚めると、そこは自宅べッドの中だった。
 あれま、いつから眠ってたんだろ。眠ったことを忘れる、な
んてなかなか出来るもんじゃないよ。超忘力なんつってね。さ
て起きるか。今日も用事はないんだけど。
 洗面所でいつものように官人式歯磨きをすませたあと、洗
顔・整髪をして台所へ移動。湯を沸かしコーヒーを淹れ、郵便
受けから取ってきた新聞を読むうち便意をもよおしたのでトイ
レへ向かう。トイレのドアを開けると身長15センチメートル
ほどの小モーゼが便座の縁に立って双手をかざし、便器内のた
まり水を真っぷたつに割っていたので蹴落としてやり、水を流し
た。
 用便後リビングにもどりPC画面をチェックする。あれれ、
小説がだいぶ進んでるぞ。いったい誰が書いたんだろ。家のど
こかに小作家どもが住んでるのかしらん。
          *
 伯父によると、あの日以降、月川さんは行方知れずとなり、
1週間後、海外在住の息子さんたちに連絡をとり、代理人とし
て警察に捜索願を提出した。そのほか自治体の福祉関連にも手
配したが消息はわからなかったとのこと。
 ところが彼の話題があがることもめっきり少なくなった1年
後のある朝、とつぜん何事もなかったかのように帰宅した。警
察も伯父も失踪中の事情を訊いたが何も覚えていなかったそう
だ。伯父が推測するに、彼は以前から天狗に対する憧れを口に
しており、あの日学校を出たあと河川を遡上、源流のある深山
幽谷にわけ入り、そこで天狗化するための修行をしていたので
はないかということだ。
 天狗になれたかどうか定かではないけれど、月川さんは以前
と変わらぬ毎日を送っているらしい。少なくとも外見上は。
          *
 ピクッとして目が覚めると、そこは自宅ベッドの中だった。
 ううむ睡眠時間に関係なく早朝覚醒しちゃうってどうなんだ
ろう。もはや睡眠など、どうでもいい身体になってるってこと
か。まあ今日はめずらしく用事があるので良しとしよう。月に
1度の老齢基礎粘菌支給日だもんね。
 えーと持ってかなきゃならんのはタッパーと粘菌手帳とそれ
から、印鑑だったな。いつも窓口がおっそろしく混み合うから
朝飯抜きで急がにゃならんわい。まったくもう、当日現物支給
のみってとこがこの制度の欠点つうか、いわゆる粘菌問題って
やつだわさ。

 おっと、出かける前に執筆の進捗状況確認だけはしておこう
――おや、変だな、いつのまにか『未来不*』なんてペンネーム
が入ってるぞ。昨夜は念のためPCにロックをかけて寝たんで、
これを書いたのはおれ自身に違いないんだが、それに気づかな
かったこのおれは、いったい、どこの誰なんだろうなあ。
(了)

*『吾妻鏡』天福二年(西暦一二三四年)三月十日の記述。
(訳)去る二月頃、南都に天狗の怪、現れ、一中夜に於いて、
人家千軒に「未来不」の三文字を書いた。


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