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ロシアの歴史 ②

3.ロマノフ朝のもとで大国化(ロシア帝国)

【ロマノフ朝の成立】

1613年に成立したロマノフ朝は、モスクワ大公国の貴族層が、イヴァン4世死後の動乱時代のポーランドなどの外国の干渉から国家を守るという意識で結束し、その共同の利害を代表するものとして全国会議でわずか16歳のミハイル・ロマノフが皇帝に選出されてしまいました。

貴族の共同統治という面が強くありましたが、17世紀中頃の第2代アレクセイの時、1670年に農民反乱ステンカ・ラージンの反乱を鎮圧して農奴制の強化に成功し、また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していきました。

また、アレクセイの時にはリトアニアに奪われていたウクライナ(かつてのキエフ公国)の東部とキエフを奪還しました。キエフはロシア国家の発祥の地であったため、ロシアはその故地を回復したことになりますが、それだけに留まらず、先進的な文化を有し西側に開かれた都市を獲得したことはロシアの発展にとっては重要な意味がありました。

【ピョートル1世】

ピョートル1世(在位1682年~1725年)は17世紀末にツァーリとなり、自らヨーロッパ各国の視察を行い、積極的な西欧化政策を推進しました。特に西欧の技術者を多数招聘し、産業の近代化に力を入れました。ロシアが西欧諸国に伍していくためにはバルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面した新都のペテルブルグを建設し、1712年に遷都しました。

その間にバルト海の覇権をめぐって1700年からスウェーデンとの北方戦争を戦い、一時は敗北を喫しましたが、それを機に軍備を整え、ポルタヴァの戦いに勝利して1721年、ニストットの和約で有利な講和を結びました。その結果、ロシアは「バルト海の覇者」と言われるようになりました。

東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結しました。これは清に有利なものでありましたが、初めてのアジアにおける国境線の画定でした。また、ベーリングを派遣してカムチャッカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作りました。

南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口として、いわゆる南下政策を開始しました。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的に継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦の基となったといえます。「ルーシ」に代わって、「ロシア」が正式な国号となるのもこの時です。

【ツァーリ専制政治の混乱】

1725年にピョートル大帝が死去した後、ツァーリの継承での混乱が続きました。皇后のエカチェリーナ(1世)、孫のピョートル2世、姪のアンナ・イヴァノヴナと次々に交替し、さらに女帝アンナ・イヴァノヴナの姉エカチェリーナの孫に当たるイヴァン6世が即位しました。しかし、わずか生後2か月だったので、その生母のアンナ・レオポルドヴナが摂政となりました。

その間、ドイツ人の宮廷官僚が政治を主導するようになりました。1741年11月、ピョートル1世を模範とした絶対君主制を再建しようとして内閣制を廃止し、皇帝官房を設置して貴族政治に戻しました。また、製鉄業や酒造業などの商工業育成も図りました。

しかし、ツァーリ政治と貴族社会を支えるロシアの農奴制はこの時期に最も強まり、農奴に対する虐待は最悪の事態を招きました。

対外的にはオーストリア継承戦争(1740~1748)ではオーストリアのマリア・テレジアと同盟し、同じくオーストリア側についた英国がフランスと戦うにあたり援軍を送りました。次の七年戦争(1756~1763)でもオーストリアを支援し、プロイセンのフリードリヒ2世と戦いました。

七年戦争の最中にエリザベータ女帝が亡くなり、後継には姉の子がピョートル3世として即位しました。ピョートル3世はプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していたので、オーストリアとの同盟を破棄しました。そのため七年戦争はプロイセン不利の情勢が一挙に逆転し、オーストリアの敗北で終わりました。このような定見のないピョートル3世は人格的にも未熟なところがあり、1762年、その妻であったドイツのホルシュタイン家出身のエカチェリーナが宮廷官僚と近衛部隊を動員してクーデターを敢行、ピョートル3世を幽閉して女帝として即位しました。

エカチェリーナ2世(在位1762~1796)は啓蒙専制君主として改革や文化の保護にあたり、一方ではポーランド分割に加わるなどで領土を拡大しました。アメリカの独立戦争に対しては武装中立同盟を提唱してその独立を助けました。

この女王の時代はフランス革命、英国の産業革命が展開した時期であり、ロシアでも近代化を急がなければならない状況でしたが、革命の勃発は避けねばらず、エカチェリーナはもっぱら上からの改革、つまり啓蒙専制君主としての改革を進めることになりました。

外交面では1768年にオスマン帝国とのロシア・トルコ戦争(第1次)を開始し、1783年にクリム・ハン国を併合しました。また、1772年に第1回ポーランド分割を主導して、領土の拡張を図りました。1773年に大規模な農民反乱であるプガチョフの反乱が勃発しましたが、それを鎮圧した後はさらに反動的になっていきました。

近代化を目指す上からの改革を行いましたが、それは不十分であり、間もなくツァーリ専制政府は再び膨張政策に転じ、国内矛盾を深めることになりました。

続く。


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