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ロシアの歴史 ①

1.ロシア人、ロシア語、ロシア暦

【ロシア人とロシア語】

ロシア人とロシア語はインド=ヨーロッパ語系・スラヴ人の中の東スラヴ人に属しています。しかし、現在のロシアも含めてロシア国家を構成しているのは、ほぼ80%を占めるロシア人とアジア系などの民族であり、多民族国家です。また、ロシア人は現在のロシアだけでなく、ウクライナやカザフスタンにも多数居住しています。

ロシア語はスラヴ語の一つですが、語順がないことやBe動詞は省略が可能なこと、冠詞がないことなど極めて自由な言語という特徴を持っています。その語彙にはギリシャ・ローマ起源のものとタタール・トルコ起源ものが多くあります。ギリシャ・ローマ出自の言葉(例えばツァーリ)が多いのは、ギリシャ正教を受容したからです。また、馬車の御者をヤムーシチクと言いますが、それはモンゴル語の駅伝制度、ジャムチからきた言葉であるといいます。

尚、キエフ公国が没落し、その後多くの封建諸侯に分裂、やがてモスクワに中心が移り、モスクワ大公国が台頭する過程で、東スラヴ人の言語統一性は失われ、モスクワ中心の大ロシア人、キエフ中心の小ロシア人(ウクライナ人)、西部のベロロシア人(ベラルーシ人)の三つに分かれました。

ロシア語を書き表す文字は、ロシア人がギリシャ正教を受容してからキリル文字が使用されるようになり、現在に及んでいます。

【ロシア暦】

キリスト教改宗以前のルーシ(ロシアの古い呼び方)では太陰太陽暦が用いられていたようで、その名残は三月を白樺月、五月を草月、七月を鎌月、十月を落葉月といったスラブの古い月の名前が残っています。キリスト教受容と共に10世紀から太陽暦のユリウス暦を取り入れ、月の名前をローマ風にし、1週7日も受け容れました。

紀元はビザンティン紀元で、これはローマ開市から754年目の年を天地創造から数えて5509年と見るものです。そのため『原初年代記』(ロシア最古の歴史書)では、キリスト教受容の年(988年)は6496年と表記されています。当時西欧ではキリスト誕生紀元が一般化していたので、ルーシは暦の上で独自の世界をなすこととなりました。

また年のはじまりをローマからの伝統で3月1日としていましたが、モスクワ大公イヴァン3世の治世の1492年に9月1日からとするように改められました。そして、西欧化に熱心であったピョートル1世(大帝)は、ロシア暦7208年12月31日の翌日を1700年1月1日とし、かつそれを年の初めとしました。天地創造紀元をキリスト誕生紀元に改めたのですが、しかしユリウス暦のままでした。

18世紀末までに西欧新教国もローマ教皇グレゴリウス13世が創始したグレゴリウス暦が採用されると、正教の国ロシアのみは孤塁を守る形になったのですが、そのためズレが生じ、ロシア暦は18世紀には11日、19世紀には12日、20世紀には13日、グレゴリウス暦より遅れることとなりました。

そのためロシア革命でのロシア暦二月革命は現行暦では三月革命、十月革命は十一月革命となります。革命後にグレゴリウス暦が採用され、1918年に同年1月31日の翌日を2月14日とされて現在に至っています。従って、革命前の年代には注意が必要となります。

2.ロシアの歴史~ロシア国家の形成~

【ロシア国家の形成】

現在のロシアが、まだロシアと言われなかった時代、現在の南ロシアの黒海北岸からカスピ海北岸の広大な草原には、スキタイ人が遊牧生活を送り、草原の道(ステップ=ロード)で東西交易のルートの一つとなっていました。

古代ギリシャ人はその地をスキュティアと呼んでおり、ヘロドトスの歴史にも情報が出てきます。しかし、彼らの実態はよく分かっていません。1世紀の半ば頃、中央アジアからフン人が移動してきて、さらに西に向かっていきました。それに押されて草原の西にいた東ゴート族などのゲルマン人が移動を開始しました。それが4世紀です。草原の北のドニエストル川とドニエプル川にはさまれた森林地帯にいたのがゲルマン人と同じインド=ヨーロッパ語族に属するスラヴ人でした。

【トルコ系民族の移住】

6世紀ころ、再び東方から民族移動の波が押し寄せ、トルコ系のハザール人がカスピ海北岸のヴォルガ川下流域に定住生活を始めました。このハザール・カガン国は8世紀にイスラム勢力に敗れ、イスラム教を受容、商業活動を活発に行って9世紀にはユダヤ教を受容しました。様々な宗教が混在するロシアの歴史的背景の一つとして最近注目されています。

また、黒海北岸には同じトルコ系のブルガール人がいましたが、彼らはハザール人に圧迫されてバルカン半島に南下し、現在のブルガリアを建国しました。尚、その時ブルガール人の一部は分かれて北東に向かい、ヴォルガ川中流に移動してヴォルガ・ブルガール王国を建国しました。この国は後にキプチャク・ハン国の支配を受けた後、自立してカザン・ハン国となりました。このトルコ系民族はモンゴル人と同化してタタール人と言われるようになりました。南ロシアの草原から中央アジアにかけてはトルコ系遊牧民の活動の舞台でした。

【ロシアの起源】

第2次民族移動と言われるノルマン人の移動の一部として、9世紀の中頃、リューリクに率いられたノルマン系のルーシと言われた人々(彼らはヴァリャーグと言われた)が、バルト海沿岸から内陸に入り、スラヴ人の居住地域に入っていき、862年にノブゴロド国を建設しました。以降、その配下のノルマン人がルーシと言われ、彼らがスラヴ人を支配して成立したこの国家がロシア国家の起源となったと伝承されていくので、リューリク朝とも言います。リューリク朝は次のキエフ公国時代はスラブ人との同化が進み、モスクワ大公国の時代の16世紀末、イヴァン4世の死後、その系統は断絶し、ロマノフ朝に交代します。

話を戻します。リューリックの死後、その一族オレーグはさらに南下して現在のドニエプル川中流域を支配して、882年にキエフを占領してキエフ公国を創りました。これによってノブゴロドとキエフを南北に結ぶ広大な国家が生まれました。

これは現在のロシアとウクライナを含む地域であり、ロシア史上は「キエフ・ロシア」と言われています。キエフ・ルーシの下でノルマン系のルーシとスラヴ系のロシア人の同化が進みました。

現ロシア連邦の北西部の内陸にあるノブゴロドは、ロシアの『原初年代記』に現れる、ロシア最古の都市の一つです。その後、政治の中心はキエフに移りましたが、ノブゴロドはロシア内陸の毛皮や木材をバルト海交易圏にもたらし、また南のキエフを経て黒海方面とを結ぶ商業として栄えました。北ドイツのハンザ同盟はノブゴロドに商館をおき商人を常駐させていました。このような商業の繁栄を背景に市民層が成長し、12~14世紀には「ノブゴロド共和国」と言われる都市国家が成立しました。しかし、15世紀に有力となったモスクワ大公国のイヴァン3世によって攻撃され、1478年に降伏し、モスクワ大公国に併合されました。現在、ノブゴロドの旧市街は世界遺産に登録されています。

ただ、ノブゴロド国もキエフ公国もロシアの歴史に加えられていますが、現在の「大国ロシア」とは異なり、ノブゴロド国時代もキエフ公国時代も一地方政権に過ぎないことには注意が必要です。ロシアという国号が正式に生まれるのは18世紀初めのピョートル1世の時代の「ロシア帝国」からであり、またソ連に継承される領域がロシア領となりました。ピョートル1世の時代に、白・青・赤の三色旗が使われるようになりました。

【キエフの始まり】

現在のウクライナの中心都市キエフ(現地のウクライナ語の発音ではキーウ)は、12世紀頃に編纂された東スラブ人最初の歴史書『原初年代記』によると、東スラブ人の中のポリャーネ氏族の三兄弟キー、シチェク、ホリフの三人がこの町を開き、長兄の名前に因んでキエフとしたといいます。

現在もキエフの町のドニエプル川沿いの公園にこの三兄弟の像が立っています。東スラヴ人は、カスピ海北岸のトルコ系のハザール・カガン国との交易を行っていました。

【キエフ公国の建国】

9世紀末、ノルマン人の大移動の動きの一つとして、ヴァイキング(彼らは自らをルーシと称した)を率いたリューリクはノブゴロド国を建国しました。その一族のオレーグは、ビザンツ帝国との交易の利益などを目指して南下し、882年、ドニエプル川中流のキエフを占領、都をノブゴロドから移しました。オレーグはさらに南下してビザンツ帝国を脅かしました。これが実質的なキエフ公国(キエフ・ルーシ)の成立ですが、オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが大公として治めることになり、正式に公告となりました。

その過程でルーシは東スラヴ人に同化していきました。また、この間のことをロシア史では「キエフ・ルーシ」と言っています。

尚、キエフ・ルーシは本来は「ルーシ」とのみ呼ばれていたので、「ルーシ公国」と呼びたいところですが、その後、ルーシから派生した「ロシア」が別の国家を指す言葉として用いられるようになり、そのロシアとの混同を避けるため、後に「キエフを都とするルーシ」という意味で「キエフ・ルーシ」と呼ぶことが慣例になりました。

【キエフ公国の発展】

キエフ公国はイーゴリが若くして戦士したためその妻オリガ(ウクライナ語ではオリハ)が摂政となり、その子のスヴィヤトスラフの時代にかけて、徴税や法を整備して国力を高め、ドニエプルから黒海に盛んに南方に進出、カスピ海北岸のハザール・カザン国や、9世紀に黒海北岸に進出してきたトルコ系のペチェネグ人、バルカン半島のブルガリア人などと戦いながら、次第に軍事力を高めていきました。

988年、キエフ大公ウラディミール1世は、コンスタンティノープルに軍隊を南下させてビザンツ帝国に脅威を与えました。しかし、彼は兵を引いて自らギリシャ正教に改宗し、公認の宗教として取り入れ、ビザンツ文化を受容、「ビザンツ化」を推進しました。

次のヤロスラフ(賢公)は、自分の娘たちをフランス、ノルウェー、ハンガリーの王に嫁がせ、「ヨーロッパの義父」と言われました。ともにキエフ公告の全盛期となりました。キエフ公国がギリシャ正教を受容したことは、ロシアの歴史に重要な意味を持ちます。

フランク王国のカール大帝がローマ・カトリック教会と結んで西ヨーロッパ世界が形成されたのに対し、ウラディミール1世はギリシャ正教と結んで東ヨーロッパ世界を形成しました。さらに15世紀にビザンツ帝国が滅亡すると、キエフ公国の後継国家であると自らを位置付けているロシアが東方キリスト教世界の保護者と称するようになりました。

【キエフとは】

キエフ(ウクライナ語ではキーウ)は現在のウクライナ共和国の首都です。ドニエプル川中流の交通の要地にあり、北のノブゴロドと並んでバルト海と黒海を結ぶ商業ルートの中心都市として発達しました。9世紀末からキエフ公国の都となります。

ロシアの森林から産するクロテンなどの毛皮が重要な輸出品となっていましたが、キエフはその中継地として栄えました。

また、10世紀にギリシャ正教を受容するとともに、キリル文字を用いるようになりました。さらにヤロスラフとウラジミール・モノマフの時期に編纂された法典『ルースカヤ・プラウダ』(プラウダとは審理、正義の意味)が編纂されました。ギリシャ正教、キリル文字、法典ルースカヤ・プラウダは、いずれもロシア国家に引き継がれ、ロシア文化の基盤となっていきます。

【キエフ公国の分裂】

11世紀後半になると、キエフ公国の南からトルコ系の遊牧民ポロヴェツ人が侵攻するようになり、それとの戦いに悩まされ(伝承の『イーゴリ軍記』はポロヴェツ人との戦いが舞台となっている)、12世紀には大公ウラディミール・モノマフが一時態勢を持ち直しましたが、その死後、再び一族の内紛が起こり、10~15の公国が分離独立し、キエフ大公国はその中の一つにすぎなくなってしまいました。

分離独立した公国には、ウラディミールを都とするウラディミール大公国が最も有力であり、北東のモスクワ公国が次に台頭していくこととなります。モンゴルのバトゥの遠征軍が侵入したころのキエフ公国はこのような分裂状態になりました。

【モンゴル襲来】

1206年、モンゴル帝国を立てたチンギス・ハンは1223年にポロヴェツ人を攻撃、ポロヴェツ人はルーシに援軍を求めました。ルーシは援軍を派遣して戦ったが敗れました。ルーシは援軍を派遣して戦いましたが、敗れました。これは、モンゴルの最初の偵察行であったようです。次いで、オゴタイ・ハンはバトゥを総司令官としてルーシ征服の遠征軍派遣を決定し、1237年、バトゥの率いるモンゴル軍はリャザン、モスクワに次いで1238年にウラディミール大公国を攻撃して、占領しました。

さらに、1240年にモンゴル軍はキエフを占領、キエフ市街は炎上して、キエフ公国は滅亡しました。

キエフ公国は滅亡しましたが、その一つの地方政権であったハーリチ・ヴォルイニ公国は、ウクライナ西部の現在のガリツィア公国は、ウクライナ西部の現在のガリツィア地方で存続していました。モンゴル軍に抵抗を続け、結局はキプチャク・ハン国に朝貢して従属しましたが、独立国家としては存続しました。ウクライナの歴史では、これがキエフ・ルーシ公国を継承した国であり、同時にウクライナ人として最初に作った国家であるとされています。

しかし、1340年代になると、この国は北をポーランド、南をリトアニアに併合され、消滅してしまいました。

【キエフ・ルーシの後継国家とは】

10~13世紀のキエフ・ルーシ(キエフ公国)は、ヨーロッパの大国の一つでした。この国の歴史は通常はロシア国家の歴史の文脈で語られてきました。つまり、キエフ・ルーシの後継国家はモスクワ大公国であり、それが発展してロシア帝国となったされています。

キエフ・ルーシが消滅し、さらにウクライナがロシア領となり、ソ連領となってからは、ウクライナの歴史は語られることなく、ロシア史・ソ連史の一部としてきました。

一方、1991年にウクライナが独立し、改めてウクライナ民族の歴史を見直す動きもあり、「ロシア史の一部としてのウクライナ」と捉えるべきではないという主張も出てきました。

そのようなウクライナナショナリズムの見方に依れば、モスクワ公国はもともとキエフ・ルーシの地方政権に過ぎず、しかも本家のキエフ・ルーシとは異なった国家として独自発展したものであるとしています。

歴史の解釈によって見方が違うことも知っておくべきことでしょう。

【キプチャク・ハン国の支配】

バトゥはさらにポーランドに攻め込み、ワールシュタットの戦いで大勝しました。そのまま西進するかと思われ、全ヨーロッパのキリスト教世界を恐怖に陥れましたが、オゴタイ・ハンの死去の知らせに東にとって返しました。バトゥは結局、カラコルムには戻らず、1243年、ヴォルガ河畔のサライにとどまり、キプチャク・ハン国を建国しました。ロシア各地の諸侯はサライのハンに従って租税を納めなければならなくなり、長い「タタールのくびき」の時代に入ることとなります。

【タタールのくびき】

タタールのくびきとは、モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされ、モンゴル人のキャプチャク・ハン国が南ロシアに建国されました。それ以来、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代のことを言います。タタールとは複数の意味がありますが、ロシア語では一般にモンゴル人を意味します。

「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時にその首に着ける道具のことです。つまり、ロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代、という意味となります。しかし、その支配は完全に服従してしまったわけではなく、ヴォルガ地方のサライにいるキプチャク・ハン国への貢納を条件に、ロシア国家としては存続できていました。

ノブゴロド公アレクサンドル・ネフスキーは西方からのスウェーデンやドイツ騎士団の侵入に対しては戦い、撃退していますが、キプチャク・ハン国には自ら進んで臣従し、1252年にはモンゴルの力でロシア正教の主教座のあるウラディミール大公となりました。その後、ロシア諸侯はキプチャク・ハン国に対して貢納するという形で服属を続けましたが、1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク・ハン国から自立、つまり貢納義務を拒否し、その軍を撃退したことによって「タタールのくびき」は終わりを告げました。

【モスクワ大公国】

ロシア国家のキエフ公国がモンゴルに滅ぼされてから、ルーシはいくつかの地方政権に分かれ、それぞれキプチャク・ハン国に貢納してその間接的支配を受けることとなりました。いくつかある地方政権の中で、次第に有力となったのがモスクワ公国でした。1283年、アレクサンドル・ネフスキーの子ダニールがモスクワ公となてモスクワを本拠にして次第に領土を拡大させていきました。

キプチャク・ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、14世紀前半のイヴァン1世の時から、モスクワ大公国といわれるようになりました。

1380年、モスクワ大公ドミトリーはドン川のクリコヴォの戦いでキプチャク・ハン軍と戦って勝ち、ドミトリー・ドンスコイと言われ、独立の道を歩み始めました。

その後、モスクワ大公国はロシアのいくつかの公国を併合し、イヴァン3世の時にはノブゴロドなどを併合してロシアの統一を進めました。1472年、イヴァン3世は滅亡したビザンツ帝国の皇帝の姪と結婚して、その国章である「双頭の鷲」を受け継ぎ、後継国家としての権威を得ました。

これによって都のモスクワは「第三のローマ」と言われることになります。また、1480年、キプチャク・ハン国への貢納を拒否したイヴァン3世は、ハン軍を戦わずして退却させて「タタールのくびき」からのロシア解放を実現しました。次のヴァシーリー3世は、プスコフ、スモレンスク、リャザンなどの公国を併合、ほぼロシア国家の統一を達成し、周辺のカザン・ハン国、リトアニア、ポーランドなどの周辺諸国に対抗できる国力をつけました。

しかし、その戦力である騎士に与える封土が不足し、修道院の領地を没収しようとしましたが、それは修道院の土地領有を否定する清廉派とそれを擁護する保守派の宗教的対立を生み、実行できませんでした。また、イヴァン3世の法令で農奴制が強化され、農民への拘束を嫌って、南部に逃れるの農民が多くなり、彼らはコサックとなって一定の力を持つようになっていきました。

【ツァーリ国家の成立】

モスクワ大公イヴァン4世は大貴族の勢力を抑えて、専制的な権力の集中に努め、1547年にツァーリを称します。ツァーリはイヴァン3世が一時的に用いていましたが、ロシアの支配者の称号として正式に(恒常的に)用いられるようになったのはイヴァン4世からです。

イヴァン4世は、オプリーチニナという親衛隊を組織し、残虐な手法による大貴族層の抑圧して恐怖政治を行い、雷帝(グローズヌイ)と言われました。これ以降のロシアの強大な皇帝専制政治をツァーリズムと言います。

さらに、農奴制を強化して増税を強行し、軍事力を強めてカザン・ハン国、アストラハン・ハン国などの制服を成功させました。ポーランド・スウェーデンという西方からの圧力に対して、バルト海への侵出を目指しましたが、その戦争は得るもの無く終わりました。

ただ、その晩年の1581年にイェルマークによるシベリア遠征が行われ、ロシア商人が毛皮などを求めて東方進出の発端となりました。

【雷帝死後の動乱時代 1584年~1613年】

1584年にイヴァン4世(雷帝)が死去すると、次男ヒョードルが継承(長男イヴァンは1581年11月にイヴァン4世が撲殺した)したが、統治能力は無く、実権はその妃の兄のボリス・ゴドゥノフが握りました。さらにヒョードルが死んで後継者が無かったため、リューリク朝は断絶し、1598年に貴族会議でボリス・ゴドゥノフが皇帝(ツァーリ)に選出されました。

彼は対外戦争を終わらせる一方、外国貿易を盛んにしたり、大学を設置したり、近代化政策を採って評価される面もありますが、ヒョードルの子ドミトリーを暗殺した疑いが濃厚で、人気がありませんでした。その為、ゴドゥノフ皇帝の氏によって、死んだはずのドミトリーを名乗るものが次々と現れ(偽ドミトリー)、皇帝を称するなど混乱が続き、動乱状態となりました。

それにつけ込んだポーランドが一部のロシア貴族と結んでモスクワを占領すると、民族派の貴族が団結して、モスクワをポーランド軍から奪還し、全国会議を招集して新しい皇帝に、ボリス・ゴドゥノフによって追放されていた貴族ロマノフ家の跡継ぎの16歳のミハエル・ロマノフを選出し、動乱時代を終わらせました。1613年、ミハイルが即位し、ロマノフ朝が始まりました。

日本でいえば織田信長の死から豊臣秀吉を経て、徳川家康が江戸幕府を樹立した年代にあたります。

続く。


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