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~苦労続きの結婚生活~第二話

こんな私ですがお付き合いをしたら、なかなかその人を嫌いにならないタイプみたいです。

そうです、一途なんです。

私の初恋

初めての彼氏は小学校5年生の時でした。
今思うとおませさんですねw
中学生くらいまでのお付き合いって、手をつないだりするくらいでかわいいもんですね。

高校生の時は3年間お付き合いしました。

最初の結婚生活

専門学校に入り、最初の旦那さんとお付き合いが始まりました。
恋人として7年間お付き合いをして、結婚生活は2年でした。
婚約する前に、違う男性を好きになって別れ話をしていたにも関わらず、親同士が決めた結婚で断れず渋々結婚させられることになりました。
義両親と同居だった私は毎日の生活が苦痛で、すぐに私は身体に異常が起こったのです。
最初に統合失調症から始まり、国の難病指定にされているベーチェット病になったのです。
すると、その時の義母が病気でツライ私に向かって言い放ったのです。
「男の子も産めないし、病人はこの家にはいらない!!」
さらに続けて言いました。
「ご近所さんに恥ずかしいところをお見せできないから夜中に出て行きなさい!!」
そして私は夜中に2トントラックに荷物を積んで出て行くことになったのです。

母は
「家に帰っておいで」
と言ってくれました。
ただ、またあの時の悲劇に怯える生活が辛かった私は、中学校1年生の時に起きた父とのことについて話して
「帰りたくない!」
と言いました。
すると母は、
「どうして、その時に言わなかったの!?」
と言いましたが、私は母にSOSを出したことなど全部話しました。

母は兄夫婦を愛知県から呼び出し、急遽家族会議をしてくれました。
すると父は言ったのです。
「中で出してないからセーフや!」
そんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった母、兄夫婦、私は父から離れたのです。
そして私はまた悲しくツライ毎日を過ごすこととなったのです。

ホステスからの脱出

傷ついた私はなかなか立ち直れませんでしたが、チヤホヤしてくれる北新地のお客様とお酒で心を紛らわしていたのです。

普通ホステスは、お客様に
「彼氏いてるの?」
と聞かれると
「いないです」
と言うのが当たり前でした。
ある日、会社の二次会で団体さんが来られて、お話をしている中で
「彼氏いてるの?」
と言われて、もちろん
「いないです」
と答えた私におデブでブサイクな独身男性を紹介されました。
その人が今の旦那さんです。
今は私の方がおデブでブサイクですけどねw

日本人なのに日本語がたどたどしい私のことを彼は日本語が上手な外国人だと思っていたそうですw
ただ、独身貴族でお金を持っていたので色々と頼っていました。
気が付けば何かにつけては、私から誘うことが多くなっていました。
いつの間にか彼とのデートを楽しんでる私がいました。
ある日、私が唐突に
「マンション欲しいな」
というと、なんとモデルルームを私の母と3人で見に行き、私が
「この部屋が良い!」
というと、すぐに買う手続きをしてくれたのです。

旦那さんに痩せて欲しかった私は、毎日カロリー計算をして食事、お弁当を作り、旦那さんに18:00以降は春雨スープ以外の食べ物は禁止しました。
今は私に言いたいですw
因みにオットの会社の定時は18:00でしたw
3ヶ月で100kgから70kgの減量に成功しましたが、急に痩せたので会社の方たちからは病気説が流れたそうですw

2度目の結婚

東京へ転勤の異動命令が出て、旦那さんは私に
「大阪で待ってて」
と言ったのですが、私がこの人から離れたくない!今この人と結婚しないと永遠に私には幸せはやってこないと強く思って、つい感情に任せて
「普通、ついて来い!!って言うやろ!?私のこと遊びやったんか!?」
と逆プロポーズをしてしまいました。

それで私は今の旦那さんと結婚することができたのです。

なかなか子供を授かれず5年間の不妊治療をしていたのですが、金銭的にも心にも余裕がなくなった私たちは、
「今月でダメだったらもう諦めよう」
と話し合ったそんな時に奇跡的にも赤ちゃんを授かることができたのです。
本当に嬉しくて2人で抱き合って喜びました。
諦めようとした時に、赤ちゃんを授かるというあるある話が私たちにも起きたのです。

妊娠中の苦難

そんな喜びも束の間でした。
最初の検診で主治医は言いました。
「赤ちゃんが産まれても、あなたたちとは一緒に暮らさせない。」
と…
私は泣きながら聞きました。
「どうしてですか?」
するとこう言われたのです。
「あなたはこの子を育てるだけの心の余裕がないからだ」
と…

そうして、私たちには子ども家庭センターの担当の方が付いたのです。
何度も話し合いました。
毎回検診に行く度に主治医とも話し合いました。
旦那さんと私は
「私たちで頑張って育てていく!」
と心に決めて、関わる全ての方に何とか私たちの気持ちを分かってもらいたいと思って何度も何度も話し合いを繰り返しました。

そんなある日の検診で主治医から思いもよらない言葉が出たのです。
「中絶するんだったら今ですよ!」
私は衝撃で涙が止まりませんでした。

もう既に病院、子ども家庭センター、市役所の方たちは、私たちの赤ちゃんを乳児院に入れる手配までしていたのです。

私たちの強い願望で中絶は免れましたが、私たちは納得がいかないまま。
それでもお腹の中にいた私たちの赤ちゃんはすくすく大きくなっていってくれました。
念願が叶い赤ちゃんを授かった私は嬉しいという気持ちより、不安でツラくて毎日泣いて過ごすことが多くなりました。
それでも私たちは
「自分たちで育てていくんだ!」
という負けない強い気持ちでいました。
そして、予定帝王切開で無事に男の子が産声をあげてくれました。

今まで自分は自分の存在価値が分からず、いつ死んでも良いと思っていた私は、生まれて初めて旦那さんに泣きながら言ったのです。

「私、生きたい」

赤ちゃんがどうなるか分からない状態の中、私に悲劇が訪れました。
10日間、赤ちゃんと一緒に過ごせると思っていた私ですが、赤ちゃんと過ごせたのはたった1日だけでした。
私は出産2日後、精神科の隔離病棟の個室に入れられ、赤ちゃんは小児科で過ごすことになったのです。
入院中、赤ちゃんに会えるのはミルクをあげる1日2回だけでした。
私は何度も隔離病棟から脱走しようとしては看護師に捕まり、先が真っ暗でした。
それが裏目に出たのでしょう。
退院してからも、話し合いは続いていました。

他人に切り離された家族

産後の1ヶ月検診の前日に私は病院に
「明日、息子を迎えに行きます。」
と電話をしました。
何時間後だったでしょう、子ども家庭センターから電話があったのです。
「息子さんを緊急保護しました。今から旦那さんと一緒に子ども家庭センターへ来てください」と…
私は慌てて仕事に出ていた旦那さんに電話をし、旦那さんも駆けつけてくれて、泣きながら子ども家庭センターへ行ったのです。
すると、一枚の紙が出てきて、担当の方が言いました。
「読んで納得した上でサインしてください。でないと、お子さんの居場所も言いませんし、会わせません!」
と…
泣きじゃくる私の横で旦那さんは激怒してすごく反発してくれていましたが、担当の方が言い放ったのは、
「では、息子さんと会えなくて良いんですね!?」
追い打ちをかけられた私たちは自分たちの息子がどこで何をしているのかさえ分からないのは本当にツラくてサインをするしかなかったのです。

それからも大変でした。
毎週火曜日と土曜日に片道2時間かけて乳児院へ行き、息子に会えるのは20~30分程度でした。
もう本当に必死でした。私の精神的な具合が良くなくても、薬を飲んでは欠かさず会いに行っていました。

そんな時、一筋の光が見えたのです。

希望の光

子ども家庭センターの方が
「親戚に頼れない状態だから帰せないけど、保育園などの他に頼れる場所が決まったら、自宅に連れて帰っても良いですよ」
と言ってくれました。

私たちは一日も早く息子と暮らすためにも頑張ろう!と思えました。
そこから、毎月市役所へ行く生活が始まったのです。
市役所で保育園の待機児童に入れてもらいました。
毎月中旬くらいになると市役所へ行っては、保育所の空き情報を聞いていました。

その生活は11ヶ月続きました。

そして息子が1歳になり、保育園の入園が決まりました。
3月下旬、やっとの思いで私たちの想いが実り、3人で生活ができるようになったのです。

次のお話

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~アスペルガーで依存症の私が自立するために学んだこと~第一話

~MLM副業体験~第三話

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