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近しいひととの死生観の乖離のおはなし

死生観。

個々それぞれの経験、学習によって違うのが当たり前、な話です。

元職が看護師でお看取りも数々、自宅では祖父を看取り、(親族で見送りは0~106歳まで)更に自死遺族となるなど何故なんだかよく分からないけれど、なんなんだこれ?ってな位。私のまわりで起きた、この目で見て経験してきた死は多様でした。

生まれたら何はどうあれ、ひとは死ぬ。

と云う極々シンプルなところに今のところ着地しているのが私のなかの死生観です。私は特に帰依する宗教を持ちません。キリスト教の幼稚園で賛美歌と礼拝を覚え、神社では柏手を打ち、仏前ではおりんを鳴らし、近くに来たついでにと日常のついでで墓に寄って合掌する八百万の神も日々増加更新の国の一般的な人間です。一部のカルトを除いて、他者の宗教を否定もしません。

実際のところ、サイコパスと呼ばれる方に近いのか?と自分で思う位に死に対してドライだと思います。一番幼い頃の記憶では私は4歳で曽祖父、悲しいけど、これが死ぬって事なんだな、と考えていました。

父の自死も「まさか、どうして」の周囲の悲嘆を横目に「ああ、そこしか見えなかったんだな、正に完遂するひとの行動テンプレだ」的な思考でした。周りの方の父との関係と悲嘆の表出のあれこれを興味深く観察していました。

自分自身の区切りとして、検死から帰ってきた父の納棺の為のエンゼルケアをさせて貰いながら自死の痕跡とそこに至るまでの思考トレースをして心の中で腑に落として。

火葬のボタンも姉弟で任され弟は手が震え押せずにいたのを躊躇なく押し、後から弟にひとの心がないんか的に責められたものです。

私はグリーフケアのプロセスをすっ飛ばしてしまう位には「普通」からかなり離れたところにいるんだと実感しているところです。家族や知人を見ていると、受容のプロセスのこの辺りにいるんだな、と推測出来ますし、個々の反応として関係や年齢により様々に段階を踏んでいるのがわかります。年齢の高いひとはやはり数をこなしてきた経験でしょうか?それを老人力っていうものでしょうか?強いし回復も早い。

なにはどうあれ他者との死生観の乖離はどうしようも無いし、私が素直に出してしまうとヒトデナシ認定されてしまうので普段はマスキングしています。自分の思うところは置いといて傾聴メインで動くのが最適解かな、というところで。


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